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レンゲラジオの再開に想う

今から10年前、2011年の6月に「レンゲラジオ」というPodcastを始めた。
厳密に言えばその1年前くらいに、仕事が何もない日々に嫌気がさし、とにかく何かしたいと思い立ち、パソコンやマイク、ミキサーなどの機材を購入しはじめたのがスタートだった。

僕自身はラジオをあまり聴くことはなかったが、相方はちょいちょい芸人さんのやっている深夜ラジオを聴いていたらしい。
でも何だろう、あのマイクを挟んだ向かい合わせの芸人が並んでいる絵に強烈な憧れがあったのは事実で、とにかくラジオがやりたかった。
当時はYouTubeなど動画プラットフォームもまだ黎明期で、まだその魅力に気付くことはなく、僕はむさぼるように音声配信の方法を探していた。

初めての収録。
場所は相方の家だった。
1本1000円のマイクに数百円のケーブルを、オーディオテクニカのアナログミキサーに繋いで、中古で買ったMacbookに差す。
どうやらマイクのノイズを減らすためにポップガードというフィルターが必要らしい。
お金の無かった僕は、100均でストッキングと針金、洗濯ばさみを買ってきて自作した。
最初の収録は大失敗。
アナログ接続であったため、ノイズが酷く、でもまぁこんなものなのかなとそのままアップした。
もちろん知り合いの数人しか聴いていない。
その後、どうやらきれいな音声で録る為には、オーディオインターフェースというものが必要であると知り、友人のミュージシャンにM-AUDIOのFireWireSoloを借りた。
これで劇的に音声が良くなった。

初めは話すことも何も無かった。
仕事はないし、過ごす日々はバイトの毎日。
他愛のない話をボソボソとする回が続いた。
下ネタも多かった。
ただすごく楽しかった。
既に芸歴は6年目とかだったと思うが、月に1回か2回のライブしか出ておらず、ロクに仕事らしい仕事もしていなかった僕にとって、レンゲラジオはとても刺激的なものだった。

週に1回の配信だったが、回を重ねていくごとに、もっとラジオらしいことをしようと、コーナーなんかも始めた。
特に相方が毎週書いていた「前口上」と、時事コラム「山下隆章の罵詈雑言」は、今思えばよく毎週書いていたもんだと感心する。
その頃にはリスナーも増えていて、見知らぬ人からのコメントも見受けられるようになっていた。
営業先で急に初対面のお客さんから声をかけられ「レンゲラジオ聴いてます」と言われた時にはぶったまげた。
iTunesのPodcastでも配信していたのが功を奏したのか。

ラジオを始めて1年ほど経って、現在はサービスを終了しているケロログから、Seesaaブログへ場所を移した。
週1回でも毎回1時間から2時間程度の配信だったのでブログ容量をオーバーしてしまったのだ。
Seesaaブログの有料プランに申し込み、ラジオを継続することにした。
ブログの管理画面で各回の再生回数を見ていると、平均で3000回ほど聞かれていた。
驚いたし、すごく嬉しかった。

2011年の冬に僕はバルーンアートを始めるのだが、その道中もラジオで追っていた。
1年ほど修業を積んでいたタイミングで、初めて吉本の営業社員Kさんと仕事を一緒にする。
地域のお祭りでバルーンアートを配る仕事だ。
相方はおらず、僕だけで行った。
バルーンアートが営業で有用なのはもちろんだったが、そのKさんは珍しく、蓮華という謎の芸人のことをネットで調べてくれた。
そこで出てきたのがレンゲラジオだったそうだ。

そのお祭りからあまり日も経っていない後日、Kさんから急にコンビでの仕事を依頼される。
地域の町おこし的なイベントのステージの依頼だ。
持ち時間は40分。
この当時もまだ月に1本か2本、1分のネタしかやっていない僕らにとっては間違いなくぶっとんだ仕事だった。
そもそもKさんは、僕がバルーンアートを配って、その後ちょっとしたステージの前説をしているところしか見ていない。
相方とも会っていないのだ。
なんでこんな仕事を僕らに振ったのか聞いてみると「レンゲラジオであんなに長くしゃべれるんだから大丈夫でしょ」との返答だった。
まさかあんなラジオを聴いてくれる社員さんが居たとは。
聴いてくれたことにも感謝だったし、ラジオをやってて良かったと思えた。
当日は仕込めるだけの風船を仕込み、持っている漫才を全て出し切り、なんとか40分終えた。
Kさんはただただ微笑んでいた気がする。

2013年の3月、レンゲラジオも2年を迎える前くらいに、Kさんではない、事務所の社員さんから突然メール連絡があった。
芸人1000組ほどをまとめて管理している社員さんだ。
顔は知っているし、事務的なやりとりはしたことがあるが、特段話したこともない。
メールのやり取りはこんな感じだった。
社員「レンゲラジオという番組は誰が担当社員ですか?」
僕「いえ、自分たちで自主的にやっているものです」
社員「それが問題だということは自覚がありますか?」

メールでも伝わってきた。
あぁキレられている。
要は、事務所に所属している芸人である僕らが勝手に会社の関知していない媒体で発信を行っていることが問題だったのだ。
今でこそこんなことはしないし、むしろその社員さんの言うことも理解できるのだが、当時はただただ震え上がった。
僕「すみませんでした、すぐに辞めます」
社員「勝手に判断しないでください。上と相談します」
その社員さんですら僕にとっては「上」以外の何物でもなかったのだが、さらに上というのは一体誰なんだ。
とりあえず、相方とも相談し、レンゲラジオを一旦ストップすることにした。
ほぼ休まず毎週配信していて91回目のことだった。
悲しくもあったが、今まで全く相手にされていなかったと感じていた事務所が、仕事が増えてきた僕らのことを認知してくれたんだという謎の達成感があったことを覚えている。

結局その後「上」に相談した結果は特に連絡がなく、途方に暮れていた僕ら。
一切のお金にもならないラジオだったが、僕らのモチベーションを維持するためには必要だったラジオだし、なんだか急に腑抜けた感じがした。
そこに声をかけてくれたのが前述の社員、Kさんだった。
「勝手にやると怒られるなら、売り上げを会社に入れたら立派な仕事になりますから、一緒にスポンサー探しに行きましょうよ!」と。

いやいやこんな自由にやっているネットラジオにスポンサーなんかつくわけがないと半分疑っていた僕。
だがその頃にはKさんからの仕事も徐々に増えており、特にKさんが手がけていた仕事が町おこしなど地域に密着したものが多かったため、八王子に住んでいる僕らは、東京の多摩地域のイベントに出演することが多かった。
その中でも東京都日野市にある「高幡まんじゅう松盛堂」の会長さんが話を聞いてくださった。
正直こんなラジオのスポンサーなんて大した広告効果もないだろうが、会長さんは僕らを応援してくれる意味も多分に込めてくださって、スポンサーになってくれた。
感謝してもしきれない。
こうして一時は終了したレンゲラジオだったが、Kさんの尽力と松盛堂さんのご厚意によって、ものの12日間で復活することになる。

こういった内容を当時は伏せていたが、もう時効だろう。
そもそも当時の会社の対応も至極真っ当なものだと思う。
当時はあまり聞かない言葉ではあるが、今風に言えばまさにコンプラ問題だ。
芸人が事務所の関知しないところで変な発言をしたり、社会的責任を追及されるような事態が起こった場合に、把握していなかったでは済まされない。
その芸人が売れているかどうかは関係ないのだ。
あまりにも仕事が無さ過ぎて、事務所への帰属意識も希薄だったし、若気の至りというやつだった。
今は音声プラットフォームだけでなく、さまざまなSNSが存在しているので、事務所の管理も大変だろうと思う。
ちなみにこのnoteの存在は事務所に伝えていない。
また怒られるかもしれない。

ともあれ復活したレンゲラジオはそのまま続くことになる。
途中、仕事でご縁のあったKIZUNA Entertainment株式会社さんがスポンサーに加わってくださり、更新を続けていく。


Kさんからの仕事は増え、またその仕事をきっかけに他の社員さんからの仕事も増えていった。
ラジオでは、バルーンアート全国大会へ挑戦したこと、初めての地方営業、年末年始の泊まり込み離島営業、沖縄への1ヶ月間住み込み営業のことなどを話したり、Ustreamを使って動画の生配信なんかもやったりした。
Kさんの提案で、八王子でライブも始めた。
3か月に1回くらいのペースで50人から60人程度のお客さんに来てもらい、ゲスト芸人さんを招いての八王子地域ライブ「レンゲライブ」だ。
その準備や感想、お客さんからのアンケートも全てラジオで配信した。
最後となった第10回には200人を越えるお客さんに来てもらった。
全てレンゲラジオが起点で、レンゲラジオを中心に僕らは芸人活動をしていた。

レンゲラジオの終わりは突然ではなく、徐々に迎えていくことになった。
有難いことなのだが、芸人として毎週土日は必ず営業の仕事が入るようになった。
ただそれでも生活は安定しているとは言えず、平日はバイトをしていた。
合間を縫って収録していたラジオだが、徐々にスケジュールが苦しくなっていた。
売れっ子芸人さんのスケジュールと比べれば本当に大したことはないのだが、何せレンゲラジオはコーナー投稿のまとめ、機材の準備から収録、編集、配信まで全部自分たちでやっているので、結構きつかった。
相方は前口上やコラムを書いていたので、さらに大変だったろう。
今の動画編集に比べれば音声編集など造作もないのだが、当時はただきつかった。

事件、といっても相方は気にしておらず、僕が個人的に事件だと思っている出来事が起こる。
収録は相変わらず相方の家だ。
日中に収録するようにはしていたが、スケジュールの都合で夜遅くに収録することも増えていった。
ある時相方から「最近隣人からのクレームが多い」と言われた。
今思えばただ申し訳なかったのだが、当時の僕は「もっと早く言えよ」と理不尽な憤りを感じていた。
相方は「別に言わせときゃええねん」と気にしていない様子だったが、個人的には他人に迷惑をかけてまではやりたくないと思ってしまった。
じゃあ僕の家でやればよかったのだが、あいにく僕の当時の家はゴミ屋敷だったので、できなかった。
自業自得すぎる。

そこから「もうお前の家では収録しない」といった僕は、バンド練習などが行われるスタジオを借りたり、地域の市民センターを借りたりと、余計な作業を増やしてしまった。
これで僕は完全に参ってしまったのだった。
また更新が遅れ始めたレンゲラジオを熱心に聞いてくださっていたリスナーからは「待ってるから気にしないで」といったコメントも多くいただいていたが、個人的には「待たせてしまっている」といった負い目に耐えられなくなっていた。
そもそもレンゲラジオは何か仕事のきっかけにと始めたラジオで、その仕事が増えてきたのだから、もう役割は果たしたんじゃないのかといった思考にもなっていた。

ただ、今文章を書きながら思うのは、当時の僕は若干病んでいたんだなと思う。
ちょっと変な奴だもの。
文章を書くと客観的に見えるものだ。

そうした僕を見かねて声をかけてくれたのは八王子の飲食店「鉄板屋台まるちゃんマン」のマスター、まるさんだ。
母親の飯の次に多い回数、僕はまるさんの飯を食っている。
そんなまるさんから「ウチの休みの日にお店使っていいから、レンゲラジオ録ったら」と言ってもらった。
ただ録るだけじゃもったいないからと、イベントにしてお客さん入れたらいいんじゃない?とも言ってくれ、そうして始まったのがレンゲラジオ公開収録「レンゲラウンジ」だ。
カウンターでドリンクを飲みながら、ラジオの公開収録を聴いてもらう。
これはすごく楽しかった。
平日夜の開催ということで集客には苦戦したが、やっぱりお客さんがいた方が何倍もハリが出るし、テンションが上がる。
その頃にはレンゲラジオは200回を優に超え、正直コンビ2人で収録することにマンネリも感じていたのだと思う。

そうして何回か行ったレンゲラウンジで収録した254回目を最後に、レンゲラジオの更新は途絶える。
レンゲラウンジは楽しかったが、なかなか集客を増やせないことでまるさんにご迷惑をかけるも嫌だったし、かといってレンゲラジオを収録する場所を探すのもきつかった。
募集していたコーナーやプレゼント企画なんかも全て投げ出してしまった。
個人的には楽しくてやりたかったものから、義務感に変わってしまったレンゲラジオをあのまま続けるのは難しかったんだと思う。
相方にもあまり相談できなかった。
しばらくしてコンビでレンゲラジオの話をすることも無くなっていった。

更新が途絶えて5年。
今回YouTube上にてレンゲラジオを再開することにした。
僕の許容範囲の狭さから投げ出してしまったレンゲラジオだったが、このご時世で仕事を失った今、もう一度レンゲラジオからスタートしてみようと思った。
人前に立つことが少なくなり、芸人としての能力も日に日に衰えているのを実感する毎日。
もう一度レンゲラジオで鍛えなおそうと思う。
売れているとか売れていないとか、誰が聴いている聴いていないとかではなく、自分たちのためのレンゲラジオをやってみたいと思う。
ちなみに今はレンゲラジオの収録日が楽しみの一つになっている。
収録場所は僕の家だ。
願わくば隣人トラブルが無いことを祈る。

レンゲラジオが聴けるYouTubeチャンネルは以下から!
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RengeBalloon【蓮華】

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