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ネタバレ全開!Y&A特撮フカボリLabo 6

『仮面ライダー ガッチャード』(別冊)


◆冥黒の三姉妹
 
 この作品で巧い描き方をしたな、と思ったのがこの「冥黒の三姉妹」だった。
 というわけで、彼女たちのためにもう1本、記事を起こしてしまった。
 
 悪意を増幅させることでケミーの本来の性質を歪め、人の世界を混乱で掻きまわし、最終的には破壊するための道具として、彼らを冷酷に“使用”する三姉妹。
 彼女ら三姉妹は自称“父親”のグリオン共々、実は人の世に悪事を為すために造られた人形(=道具)に過ぎない。この設定は『五星戦隊ダイレンジャー』の敵方と被るものだが、『ダイレンジャー』では最後のどんでん返しとしてこれが明かされたのに対し、この話では物語の中盤を越えたところで早々に本人たちと視聴者に種明かしされる。
 
 これを見た時「え?ここで?」と私は驚いたのだが、これが逆にその後の物語に大きな転機と、事実を明かされたことによる話の幅と膨らみが与えられたように思う。
 
 自分たちが人形であり、ケミーと同じ道具として扱われてもおかしくない存在だと自覚した3人は、(顔や言葉にこそ出さなくても)自我を破壊されたも同然のショックを受けたに違いない。
 目的は世界の破壊と破滅とはいえ、同じ志のもと、心合わせて進んできた三姉妹はそれぞれに迷走を始める。
 
 長女とは思えない幼い外見を持つアトロポスは、敵対する立場でありながら、なぜか自分に救いの手を差し伸べようとするりんねちゃんに強く心を惹かれる。だから気になる女の子にちょっかいを出す、小学生男子のように(女の子だけど)りんねちゃんにまとわりついては、ネガティブな言葉を投げかける。それはまるでりんねちゃんが自分と同じ苦しみを受けたのなら、同じ闇に落ちてくれるのではないか、と期待しているかのように。もしくは自分を地獄から解放してくれるやり方を示してはくれないか、と縋るかのように。
 種明かしによって、自分の人形としてのモデルが幼い頃のりんねちゃんであることが判り、観ている側はその理由が少し、見出せたような気になれる。立場代わってりんねちゃんの側から見れば、アトロポスの孤独や寂しさを的確に感じ取れた要因もここにありそうだ、と。

 だがアトロポスは最後までりんねちゃんが差し伸べてくれた手を取ることはなかった。それどころか不穏な予感しかしないというのに、父・グリオンの傍に居ることを選ぶ。それはりんねちゃんが見事、お父さんと心を通わせることに成功したのを見たからなのかもしれない。
 その事で、ひょっとしたらアトロポスはグリオンを父と慕う気持ちが通じ合えば、自分がただの人形ではないことの証明になるのでは、とまで思ったかもしれない。りんねちゃんがお父さんと、温かく、強い絆を結び直したように。そんな風にも見えてしまって、それが叶わないまま最期を迎えた彼女が哀れで仕方ない。
 
 続いて強さを求める次女のクロトー。私には3姉妹の中でもクロトーが、この「自分は人形である」という衝撃的な事実に(打ちのめされそうになっても)一番揺らがなかったように見えた。
 
 「誰よりも強くなりたい」という願いは、ヒーローも敵もどちらも胸に抱くものだ。その願いが強ければ強いほど、自分が最強になれさえすれば、自分の出自が人間であろうが人形であろうが関係ない、と言い切ることさえできるから。
 それゆえにクロトーが「強さ」を求めて自分を研ぎ澄ます限り、悩み、揺さぶられたとしても、この「強くなりたい」という願いが輝きを失わない星のように彼女を照らし、支えたとしてもおかしくないんじゃないかな、と思った。
 
 けれどその願いの強さを利用される形で、クロトーはどんどん異形の者に作り変えられてゆく。何で自分は強くなりたかったのかも分からなくなりそうなほどに。
 そのクロトーに、宝太郎はケミーを信じるのと同じ姿勢で接し、場合によっては共闘までする。そんな宝太郎と共に闘い、気持ちを合わせることでクロトーは、自分の本心からの願っていたことが何だったのかを見つけ出すことができたんじゃないだろうか。
 最後にクロトーから「私はただ以前のように姉妹3人で暮らしたいだけだ」という言葉を引き出したのは、宝太郎の持つ“ケミーを対等の友として接する心”だったのかもしれないな、と思ったりする。ギリシャ神話のピグマリオンが人形に愛を注ぎ続けて、ついには人間にしてしまったように。
 
 姉2人とは袂を分かって宝太郎たちと行動を共にし、最終的に「自分が人形だというのなら、人間になろう」としたのが三女・ラケシス。
 もちろん彼女もはじめから「人間になりたい」と思ったわけではない。ただ胸の中に生まれた違和感を無視できず、姉たちの許を離れただけだ。
 
 そう、三姉妹は3人が3人とも自分の中で壊れたり、生まれたりした気持ちに名前を付けることができない。なぜなら彼女たちは人形だったからー。そういう理由なら、すべての彼女たちの行動がストン、と腑に落ちてくる。
 
 かつてのライダーやスーパー戦隊の中でも「どうしてこの人物はいつまでも闇堕ちから抜け出せないんだろう」とか、「どうしてこの悪役は突然、改心したんだろう」という話の展開を時々見かけた。大体、納得いく理由が見当たらないまま話が終わった。場合によってはそのモヤモヤが解消せず、そのまま観なくなってしまった話もあった。
 
 だが、彼女らは人形だ。だから自分の感情に名付けができないだけではなく、表情や行動にそれを表すことにも時間がかかるのかもしれない、と思うことで、これまでの忸怩たるモヤモヤ地獄を堂々巡りせず観ていられた。
 自分たちの破壊の目的についてなら言葉で語ることができても、自分たちの気持ちについては沈黙するしかできなかったんじゃないだろうか、と。
 
 アトロポスの場合なら最期、なぜとっさに致命的な攻撃を浴びそうな、りんねちゃんの前に自分の身を投げ出してしまったのかが、多分、自分でもわからなかったと思う。
 クロトーなら、どうして最期に宝太郎に自分の戦いの引き継ぎを乞うかのような言葉を口にしたのかが、本当はよくわからなかったんじゃないだろうか。
 人間になろうと決心し、そのために力を惜しまなかったラケシスだけは恐らく、自分の恋心を自覚していただろうと推測できるが…。
 
 散り方も三者三様だ。
 (昨今の特撮にありがちな)光の粒となってふわりと大気に散っていったアトロポス。
 人間になりかけていたラケシスは、長姉のように光の粒になることはなく、人の肉体の重さを残したまま、スパナの腕の中で息絶える。
 クロトーに至っては、魂を失った小さな人形がその後に無造作に転がっていただけだ。
 (彼女にはひょっとしてモデルの人間すらいなかったのではないか、という憶測が浮かんできてしまい、一層、哀れに見えてしまう)
 
 彼女たちには生き残るチャンスを与えて欲しかったな…。と心の中で落涙した私だったが、ここから先に浮かんだ自分の感情と考えに、我ながら愕然とした。
 その先に続いたのは
 (これまでもっとロクでもないキャラでも、生き残ってやり直すチャンスを与えられた事だってあったのに!)
だった。
 
 イヤイヤ、違うだろう。
 私の価値観で人を断定するのはどう考えたって傲慢だろう。大体、自分が他人からこんな決めつけられるような形で断罪されたら、さぞや嫌だろうによ。最低限、考えても行動に移しちゃいけない気持ちだ。
 
 こんな時は「好き」だからいいんだ、という考えに、ちょっとした暴力を感じる。どんなことにも裏と表があるように、「好き」にも裏や影や闇があると思うから。「好き」だから何でもしていい、と思わないように自分を戒める。
 そして、そんなことにも気付かせてくれた『ガッチャード』はいい話だったなあ、と改めて思うのだ。
 
 最終回、りんねちゃんは錬金術になお一層、打ち込んでいることが宝太郎の口から語られる。
 幼い頃の自分をモデルに造られ、そして助けたくても助けきれなかったアトロポスにもう一度会いたい、と思っているのかもしれない。
 
 ………東映さん、やっぱ続編、あるよね?

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