『照星(しょうせい)』 8

小隊は衛生兵のペルチエーが配る抗マラリア剤のニバキンを第一分隊から順次受け取って口に放り込むと、密林の中へ潜り込んでいく。

ルイン伍長が指揮する第一分隊の剛は、その最後尾に着いて歩き始めた。その時、准尉が声をかけた。

「ヤジマ、今日は良い化粧をしているな」

「はい、ベルーに良い化粧品を借りたンです」

「そうか。わたしも後で借りよう。そうだ。今日は特別な日だね。射撃手として初めての実践だな。でも射撃はいつもの訓練どおりでいいンだ」

剛は准尉の浅黒い顔には化粧は必要ないと思いながら、悪いほうの特別の日にもなってもらいたくないと思った。

緑のベレー帽の金属のマークは光を反射するので外し、その下の顔は茶色と緑で迷彩の化粧が施されていた。
戦闘服は深いオリーブ色、そして銃は黒く鈍い色をしている。そうした迷彩の化粧は、全ての感情を隠して無表情に繕う。

密林の中の行軍は一キロを進むのにも数時間を要する。たとえ小さな獣道があっても、熱帯雨林の草木の生長は早く、半年もするとそれらの道を幾重にも覆いかくしてしまう。
先頭を進む分隊は、第一班がサトウキビ刈り用の大きく反り返った刀を取り出して草木を掻き分け、途中の木々に刀で目印を着けて行き、その後ろの班が刀で周りの草木を人が通れるほどに刈り取りながら小隊を導く。
そして最後尾の者が、細い糸の仕込まれた箱を持ち、大地にか細い線を引くように糸を張っていく。
引き出される糸は箱に付いたローラーを回して距離を計算していくのである。

そうして一キロごとに位置を確認して、時折先頭を行く分隊を交替させる。

太陽の光の届かない地面は湿っていて、枯葉が堆積して柔らかい腐葉土を作っている。
油分を多量に含んだコプラの木が朽ちて腐敗し悪臭を漂わせ、喉を痙攣させる。
突然森の奥で鳥が鳴く。時折マホガニーのように硬い赤身の木の幹に当った刀が甲高い音を響かせる。

たまに見つける木漏れ日は細い光線を暗い密林に刺していた。

誰も声を立てずに、汗を拭きながら黙々と作業をこなして歩き続けた。

昼過ぎには目標の農場があると思われる地点の、二キロ手前まで辿り着いた。

小休止でじっとしているとヒルが軍靴を這い上がってくる。
ヒルは前後の見境なく気の向くままに当て所なく身をくねらせて、笑いながらさまよい続ける。
剛はライターの火で炙って焼いて落とした。

小隊は小休止の後、各分隊に分かれて、それぞれの方面を偵察することになった。第一分隊は、そこから北の方の偵察を割り当てられた。

第一分隊は合計八人。

全員が光る物をつけていないか確認して化粧を直す。
そこからは細心の注意を払って音を立てないようにし、雑念になる表情や感情は押し殺し、手ぶりと目線の合図で意思を伝え合う。
先頭は小柄のベルー一等兵が足元に集中して彼自慢のアーミー・ナイフで枯れ枝や草木の間を確認しながら、仕掛けがないかと探しながら腰を低くしてゆっくり…ゆっくりと足を動かす。

その後ろで二メートルほどの間隔を取って、イタリア人のマンクジ一等兵が進行方向の先を凝視して進む。

そのまた三メートル程後ろをラオス人のトング上等兵が進行方向の右側を注視しながら、同時に前の二人の合図に注意を払って進む。

その後ろのスペイン人デュマー一等兵は反対側の左前方に注意を払う。アメリカ人のルイン伍長がそれに続き、分隊の中心で前方の四人と後ろの三人の行動に気を払いながら進む。

伍長の後ろではドイツ人のマトリッシュ上等兵が右後方、フランス人のカッフ一等兵が左後方を担当する。

そして一番殿の剛は、時々振り返って後方を警戒しながら歩く。

第一分隊全員が腰を落として、一足一足に気遣いながら薄暗い密林の中を、獲物を探して彷徨する蛇のように列をくねらせながら進むのである。
動画のスローモーッションよりもゆっくりと、草も木も動かさないように、静かにゆっくりと慎重に。

鳥も鳴き止み静かになる。密林の上を通り過ぎる風の音だけが微かに聞こえてくるだけだった。
右手に山の斜面を感じながら、広い谷を蛇の分隊が進む。

先頭のベルーが右手を平たくして静かに挙げた。

分隊の先頭から背後に緊張が走り、そして前方から順に歩みを止めては近くの木や岩の陰に隠れたり伏せたりした。
ルインがベルーの所に足音を殺して駆け寄った。
二人は声を出さずに手と指と目線で合図して何かを確認しあう。

ベルーの手が再び挙がって、その平たくした手を前方に折り曲げて進めの合図を出した。
蛇は、その鋭い目と幾多の足でさ迷いながら獲物を見つけ出そうとしていた。

密林の底を這い回る。

自分自身の戦闘服の衣擦れや呼吸の音さえも気になる。

数分歩くと再び手が挙がった。分隊が止まった。今度はベルーに近寄ったルインが手を挙げた。

拳を握り親指を立て、それを下に向けると上下に動かした。同じ手振りが分隊の前から後ろへと走り、それまでの緊張がさらに一気に高まった。
敵の痕跡を発見した合図だ。

不安という実体のないものから脱皮して、全ての神経は目の前の手懸りに注がれ、目標を捕らえるための警戒に変わる。

そうして今まで以上に慎重に一歩を進める。慎重さは限度を知らず、何処までも、何処までも深く体の隅々に浸透していく。
すると密林の中の地面を這う蟻の行軍の足音さえ聞こえてくる。

今度は二番手を行くマンクジの手が挙がた。平手を水平にして上下させる。
分隊はその場で止まって物陰に隠れた。
その前方を行くベルーも気が付いて、後ろを向いて伏せた。

ルインがマンクジに近寄る。二人で前方を凝視した後、ルインが双眼鏡で確認する。
行く手の密林の先に開けたような明るい光の穴が見えるのだった。
ルインは周囲を見回してからマトリッシュがその手招きで呼ばれた。
ルインは右側の斜面を指して、両手で双眼鏡を見る仕草をした。

マトリッシュは剛に手招きで着いて来るように合図した。

              つづく


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