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ネオ・ステップファミリー

元夫と生活をすると決めてはみるも、
精神的にも肉体的にも疲労困憊していた矢先、

目が思うように
開かなくなった。

医者曰く、
元々眼形下垂気味に拍車をかけ
老化のせいだと言っていたが、
原因はわかっていた。

認めたくはないが
ストレスだ。

左目の瞼が重く、
元の二重の位置はズレ、
目を開けるために
おでこのチカラを使うため
シワが目立つ。

目の調子が悪くなると同時に
今までなかったような
強烈なめまいが襲いかかった。

体調不良は
気の問題。

と今まで言い聞かせてはきたが、
今はその(気)が危ういのだから、
しっかりせねばと
言い聞かせねばならない。

虚弱体質ではないが、
元々血圧も低い。

省エネ体質であると
自負していたが、
新たな環境や状況を受けいれることに
抵抗がある自分に驚いた。

独身であることの
自由さと同時に得た
不自由さの狭間で
気持ちが揺れていたのだ。

シングルマザー

という肩書きに
あぐらをかきすぎていたせいだ。

シングルマザーを
言い訳にしたことはなかったが、
利用していた自分がいるのは否めない。

あまり公表はしていなかったが
同じような境遇の友人もたくさんできた。

助けてくれる社会のシステムや
排他的に見る世間の目を知った。

それは今まで育ってきた環境や学歴、
職歴も、
もちろん人間性も関係なく、
一つのカテゴリーに当てはめるだけ。

離婚した女。

それは、
わたしの肩書きではなく、
人格として扱われた。

その方が都合のいい立場や
環境があり、その制度は時折、
自分勝手な解釈をされる。

映画好きでもあるわたしは
時折じぶんを映画と
重ねてみることがある。

社会派映画のケンローチ監督の
【わたしはダニエルグレイブ】では、
格差をテーマに、
それぞれが置かれた立場で
生き抜いていくには、
やはり力を合わせて
いかなければならないと思わされる一方で、
シングルマザーという立場から見た場合と
かつて既婚者であった立場であった自分からみた場合では悲壮感が違うことに気づいた。

トムハンクスの【オットーという男】では
最愛の妻を亡くしたことにより
頑なに周りからの声をシャットダウンするさまは、
まるで自分の父親のための映画なのではないかと予告段階でお互いに感じていたようで珍しく2人で観に行った。w

近所付き合いや、
地域の関わりというのは
核家族だけではなく
個人としても、
必要不可欠なのかもしれないと
考えさせられる。

人間が精神衛生的に生きるには
やはり人との繋がりが
余儀なくされるからだ。

人は1人では生きられないなんて
杓子定規なことが
言いたいわけではなく、

人は制限がある方が
生きやすい。

ということ。

わたしは離婚し、
シングルマザーという名の犠牲は
自由だと考えていました。

しかし、
その犠牲は、
偏見と誤解への
理解を求めることだったのです。

シングルマザーという選択が、
不幸でも不公平でもなく、
自分勝手な生き方でもないということ。


自分がより
生きやすい選択ができるか?

より自分が自分らしい選択ができるか?

そのことだけを考えると
わたしは元夫と暮らす選択は
ベストかはわからない。 

でもいまのわたしには
ベターなのがわかる。

もちろん未來はわからない。

だから今後悔しない
チョイスをすることしかできない。

自分がこんなにも不器用で
格好悪いと認めざる得ない日々に
意外にも自分以外の人の受け入れが広いことに
驚かされながらw

もがきながらも、
元夫とまた家族として、
新たなはじまりをつくっていきたいとおもう。

どうか温かい目で見守っていてください。

それではまた
ネオ・ステップファミリー報告します!










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