喉元過ぎれば・・・

2022年7月9日、ついに娘が産声を上げた。我が子はもうこの上なく、たまらなく、可愛い。夫からえくぼを、私から眉間の皺をもらった娘は、世渡り上手な愛されっ子か、憎まれっ子世に憚るか、いずれにしても健康で力強く生きてもらえれば母はそれで良い。将来結婚するなら、しかめっ面してても可愛いと言ってくれるパパのような優しい旦那さんと一緒になんなさいね~

喉元過ぎれば熱さを忘れるとはよく言ったもので、産後1週間のカオス状態をもう既に忘れかけているので早々に記しておかなければならないと思いこのノートを書いている。日本での出産を経験していないのでフェアな比較ができないけれど、感想としては、アメリカらしいわ・・・ってとこでしょうか。言いたいことは山ほどあるが、合理的、自己責任、大雑把だけど要所だけ締める、総じて嫌いではないアプローチ。時系列を追うとこんな感じでした。

予定日前に陣痛が来る気配はなかったので予定日前日に病院へ行き陣痛誘発剤を投与。ここでお医者さんに子宮口に風船のようなものを押し込まれるのが、早速だいぶ痛い。でも、痛がる私の様子を見ながら私以上にうめく夫を見て吹き出す余裕はあり。
その後、徐々に陣痛スタート。初めは生理痛程度だったのが1-2時間もしないうちに声が出ないくらいの痛みに。そこから何故か私の我慢大会が始まる。そもそもアメリカでの無痛分娩では、先生やらナースやらから、「我慢しなくていい。好きな時に麻酔打ってあげるから。ただ、麻酔打ったら寝たきりになる&ごはん食べられないから、それだけ考慮してタイミング決めて。」と何度も言われる。日本だと子宮口5センチ開くまで待たないと子供が出て来られなくなるかもしれず危険だとか聞いたことあったけど、全くそんなことに根拠はない、分娩に影響は一切ない、と先生が断言。つまり、寝たきり&断食さえOKなら、陣痛誘発剤の投与前に麻酔したっていいというのだ。なんと合理的。しかし何故かそこで、「耐えられるところまで耐えてみたい」という私のドМ?ドS?心が頭をもたげる。とりあえず子宮口5センチまでは頑張るか、と決めてそこから8時間、私も夫もさすがに疲弊してきた夜中すぎ、もうそろそろ5センチに近づいてもいいんじゃないの?と思ったらまさかのまだ2センチ。その時点でこの我慢大会が誰の利益にもならないと悟り、やむなく断念。(そして自分はやはり自然分娩には耐えられない人間なのか、と自信を失いしょげる。)ちなみに麻酔を打つのも痛い&怖い。脊椎にズキーンと衝撃が走り小さい悲鳴をあげてしまった。
その後はもう一瞬で感覚が鈍り、痛みと尿意から解放され、眠気に襲われ、滾々と一晩眠って翌朝に。結局陣痛が始まってから17時間後、やっと子宮口は5センチになった。あの時点で麻酔してなかったら今頃ゾンビだっただろうなと、自分の力不足を思い知る。その後は数時間で子宮口全開、いきみ始めて30分もせず娘はつるんと産まれてきた。

娘とskin-to-skin(カンガルーケアというやつ)をして感動に浸って、とりあえず空腹を満たして・・とやっている間にナースがバイタルとったり痛み止め持ってきたりの合間に「乳首を奥まで咥えさせて、右と左交互に、3時間に一回ね!飲みたがるだけ飲ませてよし!」と超簡易的に授乳の仕方を早口で説明。その後産後病棟に車椅子で連れていかれ、私には病院のシングルベッドが、娘には冷蔵庫の野菜室みたいな透明の箱が、夫には椅子がひとつ(カウチではなくただの椅子がひとつ!)、寝床として与えられ、これでお股冷やしとけ!と大人用おむつに氷をそのまま詰め込んだものを渡され、Good luck!という感じでナースは去っていった。さすがにぶっつづけで私の面倒を見て疲れ切っている夫を椅子で寝かすわけにはいかないので夫は家に帰し、野菜室の娘と水入らずの初夜を迎えたのである。
夜になるまでなんだかきょとんとしたまま自分がこの新しい世界で何をすべきなのか考えている様子だった天使のような娘は、夜になり突如ゴラムに変身。顔をしわくちゃにし手足をばたつかせ、おっぱいを求めて悲痛に泣き叫び、私もとりあえず何もわからないまま「乳首を奥まで咥えさせて、右と左交互に!」をゴラムが天使に戻るまでやり続けた結果、夜が明けた。出産当日、お股も骨盤もボロボロ、生理の比じゃない出血の中、ほぼ徹夜でゴラムを抱えてうろうろすることになろうとは。入院の意味は一体・・・

翌朝、エコノミークラスの機内食の廉価版みたいな朝食には手をつけず、駆けつけた夫と義母が買ってきてくれたサンドイッチに貪りついたのち、やっと少し仮眠を・・と思いきや日中はバイタルだ、検査だ、入浴の指導だ、ペーパーワークだでナースがひっきりなしに出たり入ったり。しかも彼らは時間を守らない。午後3時に来るから!と言われ起きて待っていると結果夕方になってごめんごめん忙しかったの~とやってくる。3時間に一回の授乳タイミングも逃せないから結局日中もほぼ起きたままで二泊目を迎えた。今回は夫の寝床はカウチにアップグレードされ、一緒に泊まることができたのはいいけど、二晩目の娘のゴラム化には拍車がかかっていた。結局夜中5時間半ぶっ続けで泣きとおし、おっぱいを貪り続けたゴラムが力尽きて天使に戻って寝入るまで、夫と私は狭い病院の個室で茫然自失。こうして2日間の入院生活はひたすら氷入りおむつと痛み止めを与えられながらのOJTで終わった。

産後2日での退院と聞くと日本人にはびっくりされるけれど、アメリカでの入院は日本のそれとはほど遠いのだと思う。2日以上入院させられちゃたまったもんじゃないと半ば逃げるようにそそくさと退院してきて、預けていた長男ぺぱおをピックアップして、大好きなおうちに戻って、義母の手作りご飯を目一杯食べて、やっと一息。しかしゴラムは定期的にやってくる。どれだけ母乳が出てるのか、ちゃんと正しく吸えているのかもよくわからんまま、産後1ヶ月は母乳が出るなら母乳がいいよ!と産院で言われたのを真に受けて昼夜問わず授乳、痛み止め飲みながらゾンビのようになって小児科通い、子供のおむつを変え、自分のおむつを変え、ぺぱおのおしっこシートを変える。床上げなんて概念存在すらしない。

こうして身体に鞭打って過ごすこと二日、黄疸の数値が高めと言われていた娘は生後4日目に数値が基準を少し超えてしまって、小児科の先生に突如ER(救急病棟)に行けと言われ母大ショック。しかもそこで初めて「母乳足りてなくて脱水症状気味なのも原因のひとつだね。ミルク併用してみたら?」とも言われ、これまで我慢してきた涙腺がついに決壊。この数日極限状態で、でも娘のためならと思って必死にやって来たことがこの事態を招いたと知って、情け無いやらやるせないやら、自分は生きとし生けるものが何十億年と当たり前にやってきたことすらまともにできないのか、と自己肯定感が地に落ちて号泣。そんな自分を客観的に眺めるもうひとりの自分は、うわー。ご多分に漏れずホルモンバランス崩れてるじゃん、と苦笑い。夫も超合理的だと思ってた妻の初めて見る姿に困惑しながら必死になだめ励まし、ぺぱおはなんかよくわからないけどママが泣いちゃってる!と涙を舐めに来てくれた。その間ももちろんゴラムは健在でしっかり共鳴。

とりあえず夫と一緒に言われた通りERに娘を連れて行って再検査して4-5時間待たされて、どうやら黄疸の数値はピークアウトしたらしく、経過観察となり家に帰されたのが夜中すぎ。そこからご飯にありついて、冷静になって、よし、明日から搾乳&粉ミルク併用アプローチで徹底的に一日の摂取量管理していくぞ。と脳みそ切り替えて、そこから人間らしい生活を少し取り戻した。保険で購入できる高級電動搾乳期は見事な性能で、母乳量が日に日に増えていくのも可視化されるし、自己肯定感醸成にもすごく良い。(じゃぶじゃぶたまる母乳を保存しながら、生きとし生けるものへの劣等感が薄まっていくのを感じている😂)
娘も黄疸はすっかり良くなり、毎回哺乳瓶からたっぷり飲めるのでゴラムタイムはだいぶ短くなり、天使タイムが長くなった。産後1ヶ月母乳のみで頑張るより、粉ミルクでもなんでも速やかにたっぷり飲ませた方がよっぽど母子ともに心身の健康にいいじゃないか。それなら最初から言ってくれ!

というわけで、日本ならばゆっくり産院でケアしてもらっている1週間の間に、こちらではアメリカ式の雑な荒療治のお陰でサバイバル術が身についた。2週目に入ったくらいで、身体も気づいたら割と元気になってたし、もう最近は妊娠前とほぼ変わらないくらい回復して、搾乳のタイミングみてビール飲んで楽しんでる。
それでもまだいきなり涙腺崩壊するタイミングはある。我ながら、産後の自分は実に興味深い。

次のノートでは、産後クライシスの実態とは、激務との違いは何なのか、仕事人間の視点から分析してみようと思う。

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