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羽柴秀吉に水攻めされた備中高松城 [続日本100名城] [岡山県岡山市]

(2020年8月の攻城記録)


次に向かった先は備中高松城です。
備中高松城といえば、そう、羽柴秀吉が織田信長より中国攻めの先鋒を任され、中国の毛利氏配下の清水宗治が守る備中高松城を攻略したことで知られています。

そう、「水攻め」ですね!


そして、この備中高松城を攻略している最中に、本能寺の変が起きます。
信長が横死したことを知った秀吉はこの事実を毛利側に知られないように、和睦交渉を進めていきます。城主の清水宗治自刃を条件として和睦が成立。清水宗治の自刃を見届けると、すぐさま明智光秀を討つべく京都へ引き返します。これが秀吉の「中国大返し」です。


いやもうこれですねえ、、
司馬遼太郎の小説を読んだ時から行きたくて行きたくて仕方がなかった場所なんですよね。


備中高松駅から少し歩きますが、
まずは舟橋跡に辿り着きます。備中高松城は平城で三方が堀で囲まれており、ここだけは舟を並べて橋として、行き来できるようにしていたようです。



舟橋跡から更に歩くこと数分で見えて来ました。備中高松城跡の案内板です。

堤防工事を行い、川の水を堰き止めて城内に流し込むようにするわけですが、その水攻めの高さ表示板を見てみると、本丸の高さもあるわけですが、想像以上に高いところまで水が入り込んで辺り一面が湖と化したことがよく分かります。



と、この一帯が三の丸だったところのようです。
奥にある蔵のような建物は観光案内所で、残念ながら訪問時は閉まっていました。



これは備中高松城での戦いにおける羽柴軍、毛利軍の陣営配置を表しています。

北東に羽柴軍(秀吉、加藤清正、宇喜多忠家)が陣取り、


南西側に毛利軍の両川(小早川、吉川)が陣取っていました。と言っても、水攻めでどんどん孤立していく高松城に毛利軍は為す術もない状況だったんですが、、。



ん?水攻め音頭なんてあるんですか?



高松城水攻めを猛アピールですね。この辺りは二の丸跡でしょうか。



沼に自生した蓮、当時の城主の名前を取って、宗治蓮という名前が付いているようです。



橋を渡ると本丸跡に着きました。



おっと、当時の水攻めの様子が描かれています。

これを見る限りではかなり大きなスケールでの水攻めが行われていますね。



少し離れたところに、清水宗治公自刃の跡の案内がありました。



船に乗って城を出た清水宗治はこの場所で切腹したんですね....。
彼の死と引き換えに、家臣らの命は救われたわけです。



更にすぐそばには「ごうやぶ遺跡」なるものが、、

清水宗治の自刃と引き換えに家臣は救命されたわけですが、宗治を慕う家臣が互いに刺し違えて殉死し、後を追った場所とされています。


秀吉の調略で寝返ることなく、毛利家に忠義を尽くしてなくなった清水宗治ですが、毛利側がもし、信長の死をその前に知っていたら(明智光秀から毛利への密書が届いていたなら)どうなっていたことか、、

歴史に「もし」という言葉はありませんが、ついつい考えてしまいました。



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