『伝習録』(でんしゅうろく)を知る⑥:読書と講演会、解読力と認知の拡大

王陽明の心学を追随する人々の中には、有名な成功者が多くいます。

「心学が成功者を育成できるのなら、心学は成功学ではないか?」と思われることも考えられます。
『伝習録』を見ると、心学は成功学ではなく、その理論を完全に理解しても、必ずしも成功や名声を保証するものではありません。
また、
心学は神学や仏教とは異なり、信仰を基盤とするものではありません。
心学は信仰や宗教的な信条に基づくものではなく、人間の心理や倫理に関する客観的な研究や実践に焦点を当てています。

心学を学ぶのは何の為?と問いかけられると
心学は人生にとって一つの支点です。

心学が人生の中での基盤や支えとなり、迷いや不確実性の中で自己を見つけ、安定感を持ち、幸福を追求するための基盤です。
心学を学ぶことで、自己の理解や自己改善、他者との関わり方の向上を通じて、より充実した人生を送ることができるよう支援してくれます。

現代人の生活リズムはますます速くなっています。
また、
歴史を振り返えて見ると、生活は複雑であり、予測不能です。
この錯綜複雑な人生の航路の中で、心学を理解することで、自分の心、自分の良心が自分自身の灯台であることに気付きます。
その時は、
外部の環境に簡単に影響されることはありません。
これは、
人は不安を感じることなく、安定感に満ち、変化に対して穏やかに立ち向かい、真の自由と幸福に向かって歩むことができることを意味します。

『伝習録』の上巻。
1512年の冬、王陽明と弟子の徐愛は同じ船に乗り、北京から一路南下しました。その途中、最も頻繁に議論したのは、王陽明の「大学」に対する新たな理解でした。旅が終わった後、徐愛は師弟の対話を整理し、『伝習録』としてまとめました。これが『伝習録』の上巻になります。

心即理(しんそくり):心無私欲之弊
「心無私欲之弊」は、王陽明の「心即理」の説で、「此心無私欲之弊、即是天理、不須外面添一分」という意味です。つまり、人間の良知は天理(天然自然の道理)であり、私欲を去って天理の心で人欲を去り、天理の上で用功(ようこう:時間と労力を掛ける)をすればよい、という意味です。

『伝習録』の上巻では、「心即理」が明確に説明されています。
その背景から見ると、王陽明がこの考えを提案したことは非常に大胆で開拓的なものでした。
王陽明の少年時代の主流学説は、程朱理学(ていしゅうりがく)でありました。「程」とは、程顥(ていこう)・程頤(ていい)の兄弟(二程子)を指し、朱は、南宋の朱熹(しゅき)(朱子しゅし)のことを指します。
程朱理学の核心的な観点は「天理」(※1)です。
※1:天理とは、万物に通ずる、自然の道理。

朱熹は「天理」を客観的な規則と見なし、人生の課題はこの規則を学ぶことだと解釈しました。その学び方は、物事の本質を追求して深く理解することによって、天理を悟る方法であり、「格物窮理(かくぶつきゅうり)」(※2)と呼ばれました。
※2:格物窮理(かくぶつきゅうり)の、「格物」は物事の道理をきわめることを、「窮理」は物事の道理や法則を明らかにすることを意味しています。

人は自分の欲望を抑制し、「天理」に従うことで、修身し、家庭を築き、国を治め、天下を平和にすること「修身斉家治国平天下(しゅうしんせいかちこくへいてんか)」ができると考えられています。これを「存天理、滅人欲(ぞんてんり、めつじんよく)」と呼びます。「存天理、滅人欲」は、「天性を泯滅(びんめつ:滅んで、尽きて無くなること)せず、人間の基本的な欲望を超えたことをしない」ことで、過度の欲望や為所欲為(勝手気ままなことをする)を滅することを意味します。
※2:格物窮理(かくぶつきゅうり)の、「格物」は物事の道理をきわめることを、「窮理」は物事の道理や法則を明らかにすることを意味しています。

『伝習録』には、
段階的に学問する方法がある。
より高く自己修行する入門書である。
認識の拡張が展開されている。


自燃人、不燃人、可燃人とは

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