『伝習録』(でんしゅうろく)を知る③:読書と講演会、解読力と認知の拡大

『伝習録』(でんしゅうろく)には、
心即理(しんそくり)、致良知(ちりょうち)、知行合一(ちこうごういつ)の三綱領(こうりょう)を中心に陽明学の大要が記されています。

王陽明の人生は波乱万丈であり、文武両道(ぶんぶりょうどう)に優れ、中国の歴史において特異な地位にあり、偉大な功績を残した人物です。
「三不朽第一の完人(※1)」と称される、歴史上まれな人物です。

※1:「完人」とは、
一生を通じてあらゆる面で極致に達し、完璧な境地に到達した人です。

王陽明の龍場の頓悟(とんご)
中国の正徳元年(西暦1506年)は、大宦官(だいかんがん)(※2)である劉瑾(りゅうきん)が専横し、朝政を操って、反対する官僚を20人以上も逮捕したりした、非常に暗黒でした。
その年、王陽明は35歳でした。王陽明は忠誠な人々を助ける為、上書(じょうしょ)(※3)し刘瑾を叱責しました。しかし、これに刘瑾が激怒し、王陽明は杖罰(じょうばつ)(※4)を40回も受け、大牢に投獄され、ほぼ命を落としかけました。

※2:宦官(かんがん)は、
昔、東洋諸国、特に中国で、後宮につかえた去勢された男の役人。
※3:上書(じょうしょ)するとは、臣下から主君・上官に対して意見を記した文書を提出すること。
※4:杖罰(じょうばつ)とは、古代中国で行われていた刑罰の一つで、杖で打つこと。

その後、
多くの人々が彼を助け、一命を取り留めましたが、貴州省(きしゅうしょう)の龍場驛(りゅうじょうえき)に左遷(させん)(※5)されました。
1508年の春、彼は遠くから龍場へ向かいましたが、非常に絶望的でした。そこは自然条件が非常に悪く、道路は険しいばかりでなく、地元の住民と外部の人々の言語が通じず、しばしば外地から来た人々を神に捧げるために殺していました。
王陽明は非常に憂鬱であり、また、劉瑾による監視や報復にも注意を払わなければならない状況でした。

※5:左遷(させん)とは、
今までよりも地位の低い役職に異動させられること。

このような困難な状況の中で、王陽明は「龍場の頓悟(とんご)(※6)(龍場の大悟)」という非常に劇的な瞬間を迎えました。
王陽明は龍場に到着すると、自分の状況が理解できなくなりました。どうすればいい?そこで、彼は苦しみを和らげるために、自分の家の後ろに棺を作り、毎日その棺桶の中に座って生死の要義(※7)を悟りました。彼は言いました、「もし生死を受け入れ、見抜くことができれば、どんな困難も乗り越えられるだろう」と。その夜、彼は突然悟りを開き、狂喜乱舞し、まるで目の前の霧が晴れたように感じました。
これが龍場悟道(りゅうどうごどう)(※8)です。

※6:頓悟とは、修行の階梯(かいてい)を経ず、ただちに悟りを開くこと。
※7:要義(ようぎ)とは、物事の根本となることわり。
※8:龍場悟道とは、王陽明が貴陽の龍場で道を悟ったことを指す。

頓悟の後、王陽明は「天下のものは本来、格付け可能なものはない。その格物の功は、身心にのみ行われる」と述べました。

自燃人、不燃人、可燃人とは

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