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泣き虫だけど世界を変えたい

Twitterでは、日々差別の話、政治の話、ジェンダーの話が飛び交っている。ある友人は積極的に意見を述べ、ある友人は発言はしないもののRTで静かなる意思を示し、ある友人は逆に、意見的な人をミュートして回っている。

自宅待機で毎日家にいたときは時間があることもあり、流れてくる意見のソースや報道に一通り目を通したのち、「これは賛同しよう」「これはピンと来ないな」と選別していたのだが、緊急事態宣言の解除とともにそんな余裕もなくなってしまった。

社会人が政治や社会のことに無頓着になってゆくというのは、こういうことなのかと、思った。仕事やプライベートでトラブルが頻発し、心の平穏を失うと、Twitterをチェックする余裕なんてなくなる。好きな音楽をYouTubeでかけながら、そわそわする心を落ち着かせるように絵を描いていた。


そんな矢先、長谷川愛さんをきっかけに、スペキュラティブ・デザインについて知った。衝撃的だった。

生命倫理を訴えるアーティストがいる。同性愛者というだけで去勢され、それを苦に自殺した人がいる。差別を許していいはずがないだろう?お前は理不尽に殴られたことがあるのか?教員の好き嫌いで、コンテストの資格を剥奪されたことがあるのか?過熱するムーブメントに疲れて、「”Black lives matter”に賛同しないといけないのか?」と圧力さえ感じてたけど、そんなこと言う前に目の前で殴ってるクソバカを張っ倒すほうが先だろう?いつからそんなに冷酷になってしまったんだよ。


毎日生きていると、社会はびっくりするくらい権力や搾取にまみれていると実感することが多い。それは芸術においても同じである。深層にいるわけではない私ですら嫌気がさすのだから、もっと実力があって、精力的に活動している人たちなら殊更であろう。信じられないことが色々あって、吐きそうな程嫌だったことも、他人のことなのに絶望するほど悲しくなったことも、沢山あった。壊れていくひとたちを眺めることがコンテンツ化されているのがおかしいって、もう指摘する気すら起きないくらい、日々目に飛び込んでくる。「私をターゲットにした広告」の海で、私は窒息しそうになっていた。

この光景には見覚えがあった。高校の頃から一番好きな小説、夭折の作家・伊藤計劃の『ハーモニー』。活字嫌いを発症していた高校時代、唯一読んでいたSF小説だ「体形・生き方などの理想が極度に均一化され、"優しさ"が強制された社会で子供たちがどんどん自殺していく」というストーリーは、私が日々感じていた窒息しそうな苦しさに、現実になりそうな最悪な未来(=ディストピア)としてピタリとはまった。

『ハーモニー』は広告まみれの街を描き出す。過剰広告、極度に均一化された肉体への賛美。まさにそのまま現在の広告だと思った。YouTubeも電車広告も脱毛とダイエットばかり強調する。検索エンジンによりカスタマイズされた広告は、眼球を埋め尽くさないまでも我々の見る画面を埋め尽くし、時には無意識に埋め込まれ、強迫する。もう限界だ。SNSの闇を癒す歌詞を聴いているときに、どうしてYouTube広告にその闇を塗りこめられなくちゃならないんだ。日本はとっくにプロパガンダ地獄に陥ってるのかもしれない。


23歳。漫画と音楽のせいで自殺に失敗して3年とちょっと。私は沢山の未練を消化し、トラウマを克服し、なんとか普通に日常生活を送れるまで回復した。他者の視線に怯えることも、人前で頭が真っ白になることも、異性への過度な恐怖心も克服した。楽器が少し弾けるようになった。曲が作れるようになって、専門外のお仕事も少しはして、友達と展示も開いた。勉強が楽しくなった。大切な友達ができた。先輩が、後輩が、頼れる大人が。優秀で頼もしい仲間が。

でも、3年かけてやっと擬態した「強さ」は、たった一篇詩を読んだくらいで、あっけなく崩れてしまった。

ひたすら怖かったことを思い出した。いじめで部活をやめさせられた時、人生で一度だけ、加害者への見せしめとしてリストカットしたことを思い出した。どんなに蹴られても傷害罪が怖くて暴力を振るえないことを思い出した。アリを嫌いになった日のこと。殴られて眼鏡を割られたこと。笑いながら話すけど、わたし、全然笑えないよ。成人式の日、私を6年間バイ菌扱いし続けた同級生(元いじめられっ子らしい)が、変わらずバイ菌扱いをしてきたことを思い出した。さすがに哀れだ。でも、ぜんぶ正直しんどかった。笑ってるけど、全部全部つらかったよ。いいはずないじゃないか。


オーディションという構造が一種のリアリティーショー的側面を内包していることは知ってる。でもなんか、こんな弱い私でも、行動しなきゃいけないと思ったんだ。別に啓蒙的になろうなんて夢にも思わないし、自分が本当にふつうで、なんでもない人間であることなんて痛いほど知っている。でも、だからと言って、受けた痛みを忘れていいことにはならない。痛みは行動に変えなければ価値がない。

向き合うことはつらいことだ。しかし強烈な経験を思想に体現せず、なかったことにして時々泣くのでは、ただの子供と同じだ。もちろん世の中には忘却でしか救われない人もいる。けど、私は自分自身にそれを許せない。


私は、社会に提示したい。いちおう、絵も描ける。似たような境遇で苦しむ人がいなくなるように、弁護士からの総理大臣になりたいと願った幼少期とはきっと違う形だし、これからどうなるのかはわからないけど。愛について考えたいし、絶対におかしいことは発信する。スノビズムにも陥らず、でも誰かのためになれるようなものを、すごく、すごく気を付けながら、遺さなければならない。それが死なない理由だ。

そう決意した夜、TwitterでミスiD応募延長の知らせを見た。もう2時間もない。でもこの覚悟と、少しでも世の中が良くなってほしいという私の心からの気持ちを具現化するためにはいい機会だと思った。混乱の中で書類や動画を全部仕上げたので、きっとぐちゃぐちゃだし、矛盾だらけのツギハギだと思うけど、やる。私はすごく可愛いわけでも、一芸に秀でているわけでもない。でも私という個体を動かすことはできる!

同じ23歳の時に大衆に自らの身体を差し出したマリーナ・アブラモヴィッチのように、私は私自身をエンターテイメントの渦中に放り込みます。なぜならそれなくして行為は始まらない。ミスiD、これが私の意思表明だ。

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