私には生きる才能が無い。

 生きる為の才能とは何だろうか?
 これは、私がTwitterで「生きる才能が無い。」と、呟いた瞬間に生まれた疑問である。
 とにかく私には生きる才能が無い。それなのに無理やり生かされている感じがある。私の意志や価値なんて関係ないのだ。
 もしも、私を無理やり生かしている何かが私を見放した時が来たら、私は「ようやく死ねるんだ」と安心するだろう。でも、それだけ。
 きっと死のうとかしないし、死にたいとか考えない。生きたくも死にたくもない。
 生きる才能って自分の生死について望む力なのかもしれない。「より良く生きたい」とか「死にたくない」とか思って、その為に頑張ろうとできる才能。
 できれば、私は頑張りたくないけど、頑張らないといけないのだろう。
 でも、目先の欲の為にしか頑張れる気がしない。
 私の頑張りに対して「意味がある」なんて他人から言われたくない。
 頑張れていないのに「あなたは頑張っている」なんて評価されてしまうのが辛い。
 報われなかった事に対して価値を付けられた時に虚しくなってしまう自分が情けなくて悔しい。
 頑張るという事に対して、どんどん他人との間に断絶を感じてしまうのが寂しい。
 私の存在や頑張りが無価値で無意味で無駄でも大丈夫ならば、とても安らぐと思う。
 私が感じた絶望も、断絶も、好きも、一瞬の幸せも、ぜんぶ私だけの物だけど、あなたが望むならば少しだけ触らせてあげる。あなたには、わからないかもしれないけどね。
 私は今まで自分も他人も上手く愛せていないし、誰の事も幸せにできていない。きっと、これは私が人の愛し方や他人を幸せにする方法をまともに学んでこなかったせいだ。
 嫌になる。誰か一人くらい幸せにしたかった。
 私は生きる才能が無いのではなく、学ばなかっただけかもしれない。心のリソースを頑張る事に費やす術を身に付けていないんだ。

 もしも生まれ変わるならば、次はもっとまともで、誰かを幸せにできて、上手に生きる事ができる、ちゃんとした人間に育ちたいと願う。
 そして、こんな文章を読んでくれたあなたに深く感謝する。本当にありがとう。

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