無器用な完璧主義者たちの悩ましき日常

とかく、何かしていないと気が収まらない、という人は、日本人の中に多いのは否定できないだろう。

とある漫画の中でも「くつろぐことにくつろげない人」という書かれ方をしていた。

身体の中に、そんな虫でもいるのではないか、というのは、ある種、冗談ではないのだが。性格から来るものなのか、その辺が解明されていないのだが。

例えば、ライブなんかしてても見かけるのだが

「何をどうしてどうやってこうやって」

上から下までキッチリと決めて、その通りの段取りでない事にドンドンいらだちを覚える。生真面目でキッチリした人が多い。当然、そういう人は、歌詞だろうが何だろうが、一言のゆるがせにもしないし、その自分の想定した事が、きちんとパーフェクトに遂行される事こそを、至上の命題と美学にしている。楽譜を書いたなら、寸分たがわず、その通りに演奏しないと気が済まないレベル。

スケジュールもピシッとしてるし、何につけてもしっかりしてるのだが、この人は本当にくつろぐことにくつろげてるのかと思うほどの、妙な違和感を感じたりする。

で、書きたいのはだが、世の中にはこんなタイプの人がいる。

「美意識も高く、基本的に完璧主義の人なんだけど、本人に無理なスケジュール組みとかしてみたり、或いは自分の能力に見合わない高い理想を持ちすぎている」

とか、例えば「気の弱い完璧主義者」とか「能力があるはずなのに、別なプレッシャーでその能力が発揮できず、でも心が完璧主義者なために、いつも自分がダメだなぁと思い込んで、益々「失敗したらどうしよう」を気にして何も出来なくなってしまう人というのがいる。

「失敗したらどうしよう」を先に気にしちゃうから「慌てふためいて、逆に失敗しちゃう」という事に気づかせるのはトコトン難しい。

そういう人には、どうしたって大らかに支える人が必要になる。
そこに「また失敗して!」とか怒っていたら、益々、本人は委縮してしまうのだし。

失敗した事を責めるよりも、なぜ、失敗したのだろうを一緒に考えてあげるだけで、その人は随分と変わるはずなのに。

私は「基本的に、その人の一生に関わるレベルの事」だけは本気で叱るけど、そうでもないことにまで、いちいち失敗は咎める気はないのよね。で、それが妙な所で「優しい人」という勘違いを生み出してるようなのだが。

いや、ちょっとそれも誤解があって。

「自分は、上手く行く事をより高次元で考えてるだけで、うまく行かせるために、いちいち怒ってもしかたないことにはこだわらない」っていう別な意味の完璧主義者なので「叱った方が効果的」と思ったら、ここぞとばかりに叱るし、それとこれは話が別だと思う内容は、対応が相当に変わる。

けど、私が優しい人だと勘違いしてる人は、常に私が怒らないものだと勘違いしてるもんだから、たまに烈火のごとく怒ると、そのことだけで委縮してしまうのである。

最近の子供って、周りに優しい人が多すぎて、失敗しても大目にみてくれるものだと思うからこそ、取り返しのつかない事をした時も「気にしないでー、あはははは!」みたいな対応を取る子が異様に増えたように感じる。

「こっちは気にするの!」

烈火のごとく怒る。というのは、その子は「人の考えは根本から違うし、感じ方も違う」ということの理解を完璧に間違ってるので、自分の都合や感覚に合わせてくれる人としか付き合えない状態になっている。

だから「大らかに見えて、その実、他人の感じ方や考え方について、相当に無頓着で無神経になっている」ってことを分かっていないのだよな。

そういう子が、完璧主義者の人と対峙した時、相手の考えが理解できないとなった瞬間「自分には合わない」と逃げまくるに決まってるんだよ。けど、その自分の感覚だけを頼りにして生きるには、自分の対処能力が本人の想定よりは高くない人もまた・・・

「自分の考えに合う」「自分の考えに合わない」ばかりを気にする子たちの中の、時に「傍若無人な危うさ」については、少し、大人も考えて欲しい段階に来たのではないか、と一考する次第。

だって、いつもニコニコして笑ってるだけで、失敗しても一切の反省がないまま、自分の行動を改めることなく、次々と転職してるってことが、未来の先にどうなるか、考えた方がいいんじゃないか、という事を。

その子が、自分の考えは正しいんだから、自分に合わせない人が悪いんだ!と思い込んだまま、明日無き暴走を繰り返しているのを受け止めるのもキッツイの、こっち。

仕事、任せたいんだけど、任せられなくて。

そこを、大人は少し、考えてみるべきなんじゃないか。

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