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REM国語部会7月イベント報告レポート

 2020年7月26日、REM国語部会初となるゲストをお呼びした研究会が行われた。REM国語部会は、従来の国語教育の視点にとどまらない多様な研究分野の方々との交流を通して、国語科教育を客観的に見つめなおすという趣旨のもと、これまで活動を行ってきた。
 2020年上半期におけるREMのテーマは、「アニメーションと国語教育」。なぜ、今アニメーション なのか。それには2022年から実施される高等学校における新教育課程が関係している。2022年から実施される新学習指導要領では「文学国語」の「B読むこと」の言語活動例として「エ 演劇や映画の作品と基になった作品とを比較して、批評文や紹介文などをまとめる活動」という記載がある。原作である文学作品と、異なるメディアに翻案された作品の比較から、それらに通底する作品の要素や、それぞれのメディアの特質などを理解させるのがこの活動で目指されているのであろう。この記述によって、アニメーション作品が教材として用いられる機会が従来より増加することは間違いないだろう。
これまでも、アニメーションを用いた授業実践は、一部の私立高校などで行われてはいた。しかしそうした実践は個別的なものにとどまっており、体系的なアニメーション教材化の整備はいまだなされていない。それゆえにREMでは、土居伸彰『21世紀のアニメーションがわかる本』を軸に据え、アニメーションの教材化の方法を探ってきた。今回はついに、著者である土居氏を招いてお話を伺うことになった。土居氏とともに探る、アニメーションを用いた教育の未来とはいかなるものだろうか。イベントの様子をレポートしよう。

『水準原点』を用いた授業の振り返り

座談会はまず、6月に行った模擬授業の振り返りから始まった。模擬授業では、アニメーション作家である折笠良『水準原点』を用いて、研究会参加者たちがそれを見た感想を書きあうという活動を行ったのだが(詳細は第4回のレポート記事を参照)、土居氏にその報告を行い、所感や展望などを話していただいた。模擬授業の目標の一つは、それぞれが書いた感想を共有しながら、自分と異なった観点に接することで、異なった観点を持つ人、つまり「他者」の考え方の存在を理解するということにあった。
授業の趣旨と、授業で用いた『水準原点』という抽象アニメーションの関連から土居氏がまず述べたのが、ナラティブのないアニメーションと、「他者」と出会う授業の親和性についてだ。『水準原点』のような抽象アニメーションの特徴は、具体的な物語がないということにある。登場人物もなく、明解な起承転結もない。土居氏は、その特徴の長所に注目する。物語性があると人はそれに引きつけられ、物語を理解したことで作品全体を理解した気になってしまう。しかし抽象アニメーションはそのような単一的な作品理解を拒否し、見る人に容易には言語化ができない経験を迫らせる。物語性が無いからだ。そうした言語化が難しい経験こそ、自分には理解できない「他者」に出会う場を開かせると土居氏はいう。どういうことか。
土居氏は補助線として、抽象アニメーションを「流動的な記号」とも表現した。明解な物語性がないからこそ、見る人はそこに多種多様な意味づけを自ら行っていく。まさに固定的では無い、流動的な記号が抽象アニメーションである。そして、そこに現れるアニメーションについての言葉(=感想)は、一人一人の価値観に根差した固有のものになるという。物語性がなく、一人一人の異なる価値観が反映されるアニメーションだからこそ、それについての他者の感想を見ることは、自分とは異質な他者の存在を知る場所に授業を開かせるのではないか。
ナラティブを持たないということ、そして「流動的な記号」であるということ。土居氏は抽象アニメーションを特徴づける注目すべきキーワードを明らかにしたが、これらは抽象アニメーションだけでなく、本来アニメーションがもともと持っている特徴だとも土居氏はいう。つまり、これらのキーワードによって、抽象アニメーションのみならず、広くアニメーションの教材化に向けて留意すべき点が明らかになったといえるだろう。言語化が難しい体験をするということ。自分とは異なる価値観に対面し、自らの考えを相対化するということ。そのような授業の場を構築するうえで、アニメーションはかなり効果的な教材になりうるということだ。

抽象アニメーション、その広い「リテラシー」の在り方


 次に話題になったのが、アニメーションを教材化する難しさについてだ。確かに、先に話された抽象アニメーションの特性を活かした授業はとても魅力的なものだ。しかしその一方、実際の現場においては生徒の発達段階に準じた授業実践を行う必要があり、あまりに発展的な内容であると学習効果が得られないという問題がある。物語性のある従来の文章教材においても、その読解(=物語の解読!)を行う授業が行われている現状において、抽象アニメーションを実際の現場で扱うハードルは非常に高いのではないか。
 しかし、この問題に対しても、抽象アニメーションは広い包容力を持っていると土居氏は言う。ここでキーワードして上がったのが、「リテラシー」という言葉だ。従来の文章作品では、例えば登場人物の心情を捉えるときに、情景描写や心内描写をその読解の糸口にするというのはよく言われてきた。読解をスムーズに行うための参照点を知っているということが文章教材を読む上での「リテラシー」となるわけだが、生徒の間で読解力の差が出るのは、この「リテラシー」の差ともいえる。しかし、抽象アニメーションはこのようなリテラシーの有無を容易に乗り越えると土居氏は指摘する。リテラシーの有る人はそれだけ物語の見方の型が出来ているということでもあるが、それは逆に物語の読解を単純化してしまうことでもある。しかし、抽象アニメーションは物語性がないために(もしくは慣れ親しんだものとは別種の物語性をもつがゆえに)、このような一元的な読解を阻むのであり、物語を読むリテラシーがそこまで高くない生徒であっても抽象アニメーションの持つ「流動的な記号」性ゆえに、独自の観点を見出せる可能性がある。抽象アニメーションを含む短編アニメーションは、従来の教育現場において「リテラシー」の有無という形で表れてきた生徒の発達段階の差という問題を乗り越える可能性も持っているわけだ。

アニメーションにしかできないこと、異なるロジックを読むということ


 また、様々にある表現形態の中で、アニメーションにしかできないことは何なのか、ということも議論に上がった。文学や絵画、写真、映画や演劇など、教材化できるメディアはさまざまにある。その中で、アニメーションの固有性はどこに見出せばいいのだろうか。
 まず指摘されたのが、アニメーションは実写でないために、意図しないものは映らないという特徴だ。ドラマや映画などの実写作品では、どうしてもロケ地の環境やその時の天候などに左右され、意図されなかったものが映像に含まれてしまうということがある。だがアニメーションではそういったことは起こらない。
また土居氏は、短編アニメーションでは特に、「作り物」であることがすぐにわかることが大きな特徴だという。クレイやフェルト、またCGなど、短編アニメーションで用いられる素材はそれぞれだが、そのほとんどが個人作家の少ない製作費で制作されるため、制作にあたってのリソースが制限されることが多い。しかし、だからこそ短編アニメーションは、リアルを追求した大規模な製作費を用いるアニメや実写作品とは違った別種のリアルを提示するという。それはつまり、自分がいままで知覚し、日常だと思ったリアルを超える経験であり、そのいびつさともいえるものは、個人作家が知覚し、アニメーションの中で表現した、その作家独自の日常でもある。それを知覚するとはつまり、自分とは異なる「ロジック」でこの世界を知覚する存在を理解することだと土居氏は述べる。
このように作家個人の「ロジック」が――先に述べた「アニメーションには意図しないものは映らない」という特徴とも相まって――強く現れるのが、アニメーションの特徴でもあり、そうした他者の「ロジック」に観者が晒される経験こそ、アニメーションを見る経験の大きな特徴なのではないか。
今までアニメーションの教材化で言及されてきたのはジブリやディズニーなど、広く一般に受け入れられた作品である。しかし、これらの作品はそれ自体がもつメッセージ性(そしてそれと表裏の物語性)が強いあまり、作品理解が一元化するということがあった。これは先にも述べた通りである。もちろん、ジブリやディズニーの作品のなかにも、それぞれ異なった「ロジック」を提示する要素もあるのだが、それが強烈な「メッセージ性」によって覆い隠されてしまっている、と土居氏は指摘する。だからこそ土居氏は、アニメーション作品の「メッセージ性」ではなく「ロジック性」に注目する教材化の在り方を模索していく必要性を訴える。異なる生き方、異なる価値観、つまり異なる「ロジック」を持つ人々がいるということを理解していくためにも、抽象アニメーションの教材化はさらに開拓されていかなければならないだろう。

まとめと展望

 土居氏を招いたことで、アニメーションを教材化する地平はさらに開かれたといえるだろう。特に、土居氏が個人製作、短編アニメーションを中心的に考えているからこそ、抽象アニメーションの教材化という話を深めることが出来たのは僥倖といえる。
なぜなら、今まで、アニメーションを教材化する試みは、ディズニーやジブリを使った「メッセージ性」を読み解く授業が多かったからである。これらの授業実践にもそれぞれ長所はあるのだが、「メッセージ性」に引っ張られ、それを読み取っただけで理解した気になってしまうことには警戒すべきかもしれない。国語教育の現場では、これまで論説文や小説というしっかりとした「メッセージ性」をもつものが多く取り上げられてきた(あるいは本来は複数の捉え方が許容される作品でも、単一の「メッセージ」に還元されてしまうという教室の特徴がある)ゆえに、現場において「ロジック」を読み取る体験を行う機会がほとんどないというのは問題あろう。
今回考えたように、「メッセージ性」のない、つまり容易に言語化できない作品は、例えば「リテラシー」の有無に関する問題をある程度飛び越え、また「異なるロジック」を理解するという非常に重要な作品体験をもたらしてくれるものである。とくにこの「異なるロジック」に関連して土居氏が述べていて興味深かったのが、これまでの人間中心の価値観をもう一度捉えなおす必要があるのではないかという、ポストヒューマンに関する話だ。ポストヒューマン論とは、文字通り「人間以後の存在」を思考する研究領域であり、21世紀における人間をとりまく環境の急激な変化を受けて、現在盛んに研究が行われている。特に、コロナウイルスが蔓延している現在、他生物との共生の在り方を論じるダナ・ハラウェイに注目が集まっている。コロナウイルスをはじめとしたすべての他生物と、人間はいかに生きてゆくべきか。土居氏の話は、この観点を踏まえている。ウイルスとは、人間とは異なるロジックで生きる生物だ。それに対して、人間はいかに共存の道を探さなければならないのか。未来を生きる生徒たちを育成していく教育現場において、人間中心でない考え方を学ばせることも、未来を構築していくうえで大切なことだと土居氏は言う。筆者はまさにその通りだと思った。人間中心ではなく、異なるロジックも許容しうる在り方。それを学ぶうえでも、抽象アニメーションは非常に有効であることが今回の座談会から学ぶことが出来た。
次は、ここで学んだ知識を活かし、REMのメンバーで実践を行っていく必要がある。そして幸いにも、今年の秋に実際の高校生に向けて『水準原点』を用いたアニメーションの授業実践を行う場を設けることができた。理論と実践の往還、それこそがREMの目指しているところであり、その実現に向けて今後とも活動を続けていきたい。

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