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詩を「見る」授業はいかにして可能か? 〜REM研究会 第4回目 報告レポート 樋口貴太

 2020年6月21日、REM国語部会の読書会が開かれた。2月2日にマクルーハン『メディア論』と国語教育の接点を検討した第1回から、途中コロナウイルスの世界的流行によって形態をオンラインに切り替えたものの、今回で無事4回目を迎えることができたことは本当に喜ばしい。しかもオンライン開催によって、土地に縛られず様々な場所からフロアが参加してくださるといった僥倖もあった。このような機会によって、学びにおけるメディアの可能性はさらに拡張されていくのだろう。
 REM国語部会は、REM(=Radical Educational Meeting)が主催する国語教育に関する勉強会だ。多様なメディアにあふれる現代社会において、国語教育はいかにあるべきなのか。そういった問題に対し、国語教育内部の視点だけではなく、積極的に教育の周辺領域の知見を取り入れ、理論と実践の両方の視点から国語教育について根本的に考えるというのがREM国語部会のテーマだ。
「アニメーションと国語教育」、これを2020年上半期におけるテーマとして研究会は回を重ねてきた。第3回では土居伸彰『21世紀のアニメーションがわかる本』をもとに、21世紀のアニメーションを教材化しうる可能性について討議を行ったが、第4回ではその議論を踏まえて実際に模擬授業を行うという試みがなされた。 
 授業を担当されたのは、非常勤講師として日々教壇に実際に立っている金田富起子さんだ(授業立案者は谷頭和希さん)。私を含めた7名の参加者が生徒役として授業を受けるという形で模擬授業がなされ、その後その授業を振り返ってアニメーションを授業で実践する際の問題点の討議へと移っていった。実際に授業を受けた私の感想なども交えつつ、まずは模擬授業の内容を紹介していく。

詩を「見て」、そして書く授業

 まず、授業がどのように展開していくのかについて、授業者の側から説明があった。①アニメーションを見る。②一次感想を書く。③割り当てられたほかの生徒の一次感想に、文章向上のためのコメントをつける。④コメントをもとに、二次感想を書く。
 今回教材として取り上げられたアニメはアニメーション作家の折笠良が2015年に発表した『水準原点』という作品だ。作品の詳細は後述するとして、まずは一次感想を書くために私が見た視聴体験の印象を語ろう。とは言っても、いささか言語化が難しい作品ではあったのだが。
 映像が始まるとともに画面に広がるのは「波」だ。水平線は遠く、茫漠とした海面に、さざ波が立っているように見える。見える、というのは、実際に水面があるわけではなく、粘土によってそれが表現されているからだ。ねんどのさざ波が、こちらに向かって流れこんでくる。冒頭で表現されるのはそのような印象だ。
 次第に、穏やかだった波はうねりをともなった激しいものとなる。螺旋を描くようにねじれ、吹き上げられるように高まり、途切れることなく流れ込んでくる。粘土によって表現されるがゆえに特有のソリッドな感覚をもたらすうねりには、見るものを圧倒させるものがあった。
 そんなうねりに圧倒されて画面を凝視していると、ふと、視点が変わる。地平線を水平に眺めるものから、視点は海面を見下ろす鳥瞰的なものになった。見下ろす海面には、先ほど水平の角度で見ていたうねりが逆巻いている。そこで、あることに気づく。海面に、なにか文字が刻まれている。うねりは、海面に文字が刻まれることでほとばしった水の流れによるものなのだと。刻まれる文字は、どうやらひらがなのようだ。たまに漢字も現れる。それらは、非常に断片的なものとして提示されている。海面に一文字一文字刻まれる上、刻んだうちから波にのまれてすぐに判読できなくなってしまうからだ。文章として読もうとする試みは、すぐに断念せねばならなかった。
 断片的に刻まれる文字を眺めていると、またあることに気づく。いつの間にか、視界が狭まっていた。画面の左右から黒いひずみのようなものがせりあがり、文字の判読をより困難なものにしていった。そんななか、最後の文字が波間に刻まれ、画面は暗転する。
 ふたたび映像が立ち現れるとき、そこには次の詩歌があった。

みなもとにあって 水は まさにそのかたちに集約する そのかたちにあって
まさに物質をただすために 水であるすべてを その位置へ集約するまぎれもない
高さで そこが あるならば みなもとはふたたび 北へ求めなければならぬ
北方水準原点

 そして、アニメーションは終了する。
 このように言語化のいささか難しい、非常に印象的な約10分の映像体験が終わると、授業は一次感想を書くという次の段階に進んだ。グーグルフォームに回答欄が用意され、生徒役は感想を書き込んでゆく。
 抽象的な内容で、確たるメッセージ性があるわけではない。だがそれは、一元的ではない解釈が可能ということでもある。アニメーションを見た印象の説明から入り、気づきなどを書き込んでいくと、用意された10分間はあっという間に過ぎていった。
 次は、他の人の一次感想にコメントを加えるという活動だ。教師側からコメントのポイントとして、主に文章技術に関することと、自分の観点の相同相違に関する確認項目が示され、生徒役はそれを参考に、他の人の感想に、より分かりやすい感想になるためのアドバイスを書いていった。
 これがなかなか難しく、しかし学びの多い活動であった。匿名とはいえ、他の人の書いた感想によりよくするためのコメントを加えるというのはかなり気後れしてしまうものだ。特に、参加者はみな大学などで専門分野を深めている人たちだ。感想もスペックが非常に高く、それに改善を求めるコメントをするなど恐れ多い……。しかしその一方で、どうにかコメントを書こうとその人の感想を見つめる時間は、自分とは異なった意見と向き合い、ひいては自分の観点を相対化する契機ともなった。異なった専門領域からの視点を感想文から学び、自分の領域との接点などからコメントを抽出する。ほかの人の感想にコメントを加える時間でありながら、それは多分に自己に向き合う時間でもあった。
 そして最後に、寄せられたコメントを踏まえて二次感想を記入する時間となった。参考として再び映像も流され、他の人の観点や相対化した自分の観点などから、再び感想文を練っていく。この感想文は新しいものを作るというよりも、1次感想をブラッシュアップしてよりわかりやすいものに仕上げるという方向性が授業者より指示された。もちろん、一次感想に比べて格段に書きやすいことは言うまでもない。文章はより分かりやすい形でまとめられ、コメントをもとに異なる観点も踏まえて書き進めていく。1次感想に比べて2次感想が書きやすいという、すぐにわかる向上の感覚は、授業において学びがあったことがわかる如実な感覚であり、教育者としては毎回の授業においてぜひとも生徒に抱かせたい感覚であるだろう。集められた2次感想は全てがより洗練されたものとなっており、1次感想から2次感想への向上は容易に確認できた。
 しかし当然だが、模擬授業の達成はそのまま現場での有用性を意味しない。授業者数、生徒の発達段階、各種設備など、学校の環境とニーズは当然のことながらそれぞれ異なっている。そのような問題系も含めて、模擬授業の体験を踏まえた意見交換が開かれた。

ディスカッション①―教材として『水準原点』をとらえる

 まず議題に上がったのは、折笠良『水準原点』を教材化するとはどのようなことなのかということだ。
 『水準原点』が言語化の難しい、印象的なイメージによって作品が構成されていたことは先に述べたとおりだ。もちろん、授業者側としてもその特性を踏まえたうえで授業設計が行われていた。『水準原点』は、特定の意味やメッセージ性を備えた作品ではない。視聴体験を述べるときにも私は印象という言葉を多用したが、『水準原点』は言語的に内容を理解させる前にその視聴体験によって感情を揺さぶることを目指した作品だ。ゆえに、解釈は多様に開かれている。一元的な意味を持たず、イメージの提示を前面に出した作品だからこそ、視聴者は様々な意味をそこに見出すことができる。作品のそのような特徴は、多様な読みを生徒同士で共有し、自分とは異なる観点の意見によって自分の観点を相対化することを試みる授業では特に有効だ。
 これまでもアニメーション用いた授業実践は、一部の私立の学校などによって行われてきていた。しかしそれらの授業実践で用いられるアニメ作品は、スタジオジブリ作品のようにひろく受け入れられている作品がほとんどだった。ジブリ作品が、明確なメッセージ性を備えた作品であることは述べるまでもない。宮崎駿・高畑勲の両氏はそれぞれ現実に対してテーゼを持ち、自らの問題意識を反映したメッセージ性がその作品には織り込まれている。
 こうしたメッセージ性の強い作品を教材化し、感想を書かせるという活動においては、必然その感想はメッセージ性にそって一つの方向へと集約していく。もちろんそのこと自体が悪いというわけではないが、多様な読みを生徒同士で共有し、自分とは異なった観点からの分析を見ることで自らの観点を相対化することを試みる 場合には、作品の強いメッセージ性は大きな制約になってしまう。
 そういった点で、今回の『水準原点』という教材は生徒の多様性を保持しつつ、自らの観点を他者に開いていくという試みにふさわしいものだったといえるだろう。

ディスカッション②-アニメーションのリテラシーとはなにか

 しかし、『水準原点』をそのまま現場の授業実践に落とし込むのにはやはりいくつかの注意すべき点がある。実験的なアニメーション作品であるからこそ、その感想の質は視聴者のリテラシーに負う部分が大きいからだ。そこで次に焦点化されたのは、アニメを見るリテラシーに関しての問題だ。
 冒頭において、折笠良『水準原点』の詳細を省いたのにはもちろんわけがある。本作は、2015年に発表され、第70回毎日映画コンクール大藤信郎賞、ザグレブ国際アニメーション映画祭でゴールデンザグレブ賞を受賞している。石原吉郎『水準原点』という詩を下敷きにしており、粘土に詩を刻印、一年をかけてストップモーションアニメとして一つの映像に組み上げた作品となっている。
 授業者はこの情報を、1次感想を書き終えた段階で生徒側に提示した。もしこの情報が1次感想を書く前に提示されていたら、1次感想にはこの作品情報によるバイアスが確実に入っていただろう。今回授業者は、できるだけ予備知識を省いた状態での視聴体験と一次感想に価値を置いた。だからこそ余計な情報に左右されない様々な感想が上がったが、アニメーションを十分に見慣れていない小・中・高校生を相手にした実践ではこのようにうまくはいかないというのは、全員に共通した認識だった。
 そもそもアニメとは総合芸術だ。音楽があり、映像があり、場合によっては声もある。またアニメーションに固有のメディア特性を考えれば、例えばトーマス・ラマールが『アニメ・マシーン』で述べるようにレイヤーの連なりによって表現された媒体だということもできる。このような観点をもともと持っていれば、アニメを見て感想を書くという場合でも注目すべき点を見出すことができるが、教師側から観点を提示しないですべての生徒が最初から自分なりの観点を持っているとは考えにくい。だとすれば、このアニメーションを見る観点、つまり「アニメーションのリテラシー」をできる限り明確にし、それを適切なタイミングで生徒に提示することが必要なのではないだろうか?

ディスカッション③―アニメーションのリテラシーを授業のどこに、どれぐらい位置付けるか

 1次感想を書く段階では、余計な情報に左右されない、生徒が自分で見出す気づきを大切にしたいという方向性がある一方で、他方では観点を提示しないと、そもそも1次感想が書けないのではないかという問題。そもそもある作品の理解において、教師側はどのタイミングで、 どれだけ生徒の読みに介入すべきなのかという問題は、アニメを教材化する場合に限らず、これまで長らく考えられてきた問題でもある。広く生徒にある作品の感想を書かせるという活動においては、この問題を避けては通れないだろう。
 この問題については多くの意見が寄せられた。
 1つ目は、やはり1次感想を書く前に観点はしっかりと提示するべきだというもの。なんの観点も持たずに作品を見た場合、最悪何の感想も浮かばないという状態も十分にあり得る。しかもこの活動には1次感想にほかの生徒がコメントをつけるという活動もあるが、1次感想が原始的・抽象的であるほど、それにコメントをつける側の負担も大きい。生徒が自ら見出す観点も大切だが、まずは観点をもって作品を見るとはどういうことかを生徒に体感させる必要があるということだ。
 他にも、一次感想と二次感想の間にもう一つ感想の場を設ける提案も提出された。それぞれにおいて段階的に教師が介入し、感想の方向性を集約させていく。1次感想の際は何の観点も提示せず、生徒が自分で考えた感想を書く時間も設けたうえで、観点を提示して2次感想以降の感想のブラッシュアップを図る。1次感想に対するコメントは教師がつけるが、2次感想に対するコメントは生徒側に任せることとする。2次では教師のコメントを踏まえてブラッシュアップもされているため、生徒側からのコメントも書きやすいというメリットもある。
また、コメントをつけるという授業の側面をもっと生かし、似たような感想でグループ分けをしてそのグループ内でコメントをつけあうことで、コメントをつける難易度を下げつつ、各々のグループを通してそれぞれ違った観点を見出すというあり方も提案された。
 少し話は大きくなるが、授業が教師によって運営されるものである以上、それに参加する生徒たちが教師のもつバイアスによって影響を受けることは免れ得ないことだ。そういった意味では、授業とは生徒の考え方に瑕疵をつける行為でもあるのだ。だが、ゆえにこそ教師がそういった授業が必然的にはらむ暴力性に自覚的かどうかは、生徒の学びの質に大きく影響を与える。教師は授業が持つ暴力性に自覚的でありつづけ、それに対し向き合う姿勢を常に持つ必要があるのはいうまでもない。

ディスカッション④―感想から批評へ

 そもそも感想とはなにかということも、議論を進めていくうえであがった議題のひとつだった。「感想を書け」という活動はもはや教育現場ではおなじみのフレーズだが、感想と言うのは実は非常に抽象的なものなのではないかということ。ここで感想に対置されたのが、批評という言葉だ。「この作品について感想を述べよ」というのと「この作品を批評せよ」ということ。作品について生徒に意見を書かせるときに、この二つの差異はしっかりと考えておく必要がある。
 簡易に述べるなら、「感想文」とは作品をみて思ったことや考えたことを書くものであり、「批評文」とは相手を説得させることを念頭に置き、根拠づけなどを伴った文のことだ。自分のうちに生じた思いを書く「感想文」はそれゆえ自己のうちにこもりやすく、「批評文」は根拠を求めるがゆえに作品の構造など外に目が向きやすい。少し問題を簡易にしすぎているきらいもあるが、「感想文」と「批評文」には、このような差異を見出すことができるだろう。内容が抽象的であったり、そもそも観点が見いだせていなかったりという、作品について意見を書かせるうえで陥りがちな問題に対しては、「感想文」ではなく「批評文」を書くというゴール設定も一つの手段として考える必要がある。

まとめと展望

 さて、アニメーションの教材化の可能性を探るという今回の模擬授業では、上記のような様々な問題意識がもたらされたが、特にアニメーションの特性に注目するならば、次の観点はアニメーションを教材化するうえで必ず明確にしなればならない課題となるだろう。
 まずは、①アニメーションを見るうえでの観点はどこに設定すればよいのかという問題だ。先にラマールの『アニメ・マシーン』を上げ、レイヤーという視点がアニメというメディア特性を考えるうえで重要だということは紹介した。そのほかにも音声、映像、声優の問題、セル画なのかデジタルなのかなど、アニメには様々な観点が存在する。アニメの教材化に当たって、それらの観点はどのように精選されていくべきなのだろうか。
 次に、②そもそもどのようなアニメが教材化に適しているのかという問題だ。今回使用したのは『水準原点』、クレイアニメーションという実験的な映像手法を用いた作品だった。今回の模擬授業では、短編であるからこそ繰り返し見ることができるという利点も見いだされた。また、一元的な意味性を持たずイメージが先にくる作品⇔ジブリのようなメッセージ性が強い作品のそれぞれの特性も先に述べたとおりだ。より多くの生徒が受け入れることが可能で、学びを引き出す作品はどのように選ばれるべきなのか。
 この2点の問題に関しては、次回、第5回となる勉強会に引き継がれ、より具体的な議論がなされるべきだろう。次回は、アニメーション研究の第一線で活躍している土居伸彰氏を実際にお招きし、様々な意見交換がなされる。二つの問題に関しても、ぜひ土居さんの意見を伺い、より知見を深めていきたいところだ。

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教育×アニメーションのイベントを開催します

 REM国語部会では、アニメーションを国語教育に効果的に活用するための方法を模索するためのイベントを行います。イベントでは、アニメーション研究家で多くの短編アニメーション作品を精力的に日本に紹介している土居伸彰さんをお招きして、アニメーションと教育についてディスカッションを行います。

イベント「21世紀の国語教育・21世紀のアニメーション」

開催日時:2020年7月26日(日)13時〜16時
参加費用:500円
イベント内容:
1部:アニメーションを使った「書くこと」の授業提案
2部:アニメーション教材化の産業構造を考える
それぞれの部で、希望者によるディスカッションを行います。
開催方法:
オフライン開催(会場の様子をZoomにて中継いたします。ZoomのトークURLは入金が確認されてから)
※開催方法につきましては、コロナウイルス感染拡大防止の観点から状況を判断しつつ、随時決定いたします。決定次第、情報を更新いたします。
参加方法:
参加ご希望の方は、こちらのフォームにご記入ください。

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