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2015/8/13 「エリザベート」

★東宝エリザベートを「花總まり」で

 東宝エリザベートに花總まりが主演する。これは事件である。私はすぐに観劇を決めた。宝塚を観るようになって15年、卒業したOGの公演には何度か足を運んでいるのだが、これほどのディープ・インパクトはそうあるものではない。

 宝塚ファンの皆様には私のこの「キモチ」は容易にご想像いただけると思うが、記録のためにその理由を以下に記しておく。

 「エリザベート」は19世紀のオーストリア皇后エリザベートの生涯を描いたウィーン発のミュージカル。日本では1996年に宝塚歌劇団雪組で上演されて以降、何度も再演を重ねる大人気ミュージカルで、2000年からは東宝製作で帝国劇場でも上演、こちらも再演を重ねている。

 そんな人気ミュージカルの主役に花總まりが挑む。彼女は宝塚時代、5人のトップスターの相手役を合計12年間にわたって務めた伝説の人である。日本人ばなれしたプロポーションには華やかなドレスが誰よりもよく似合い、愛らしく清楚で美しい。しかも、ダンスを踊れば子鹿のように軽やかで、天性の芝居心もある「ザ・娘役スター」であった。

 宝塚歌劇団雪組が日本で最初に「エリザベート」を上演したときのエリザベート役も彼女だった。一幕最後の鏡の間の場面に登場したときの息を飲むような美しさは、今なお宝塚ファンの語り草となっている。その後、宙組でもエリザベート役を演じた。私は彼女の二度のエリザベート役は写真や映像でしか見たことがない。今回こそ、絶対に見逃すわけにはいかないのである。

★主要6役はダブルキャスト

 この公演はエリザベート、トート、フランツ、ルドルフ、ゾフィー、ルキーニの6役がダブルキャスト、少年ルドルフ(子役)がトリプルキャスト。私の観劇した8月13日夜公演のキャストは下記の通り。

エリザベート(オーストリア皇后)………………………花總まり
トート(死、黄泉の帝王)…………………………………城田優
フランツ・ヨーゼフ(オーストリア皇帝)………………田代万里生
ルドルフ(オーストリア皇太子)…………………………京本大我
ゾフィー(フランツの母、皇太后)………………………剣幸
ルイジ・ルキーニ(イタリア人テロリスト)……………尾上松也
少年ルドルフ(皇太子の少年時代)………………………松井月杜

 少年ルドルフ以外のキャストは、事前にスケジュールが発表になっていた。チケット購入にあたって私が考慮したのは「エリザベート=花總まり」ということだけだ。ゾフィー役の剣幸も宝塚OG。彼女は月組のトップスターとして、ミュージカル「ミーアンドマイガール」の初演でビル役を務めたことで知られる。

 男性キャストについて私は詳しくない。型通りで申し訳ないがざっと触れておく。城田優は東宝ミュージカル常連の若手、田代万里生は声楽家、京本大我はジャニーズ所属のタレントで俳優京本政樹の長男、尾上松也は歌舞伎役者。バラエティに富んでいるが、それぞれ後ろに大勢のファンを抱えているのだろうな、というのが想像に難くない面々で、興行ビジネスのシビアな姿が垣間見える。

★その他の配役

 以下のキャストは全員シングルではある。だが、プログラムを読む限り全員が一人二役以上をこなしている。エリザベートの親戚、ウィーン市民、ハンガリーの民衆、兵士、娼婦といった役どころを兼任しているらしい。

ルドヴィカ(エリザベートの母)と
マダム・ヴォルフ(娼館の女主人)………………………未来優希
マックス(エリザベートの父)と
ツェップス(新聞発行人)…………………………………大谷美智浩
エルマー(ハンガリーの革命家)…………………………角川裕明
シュテファン(ハンガリーの革命家)……………………広瀬友祐
ジュラ(ハンガリーの革命家)……………………………安倍康律
リヒテンシュタイン(女官長)……………………………秋園美緒
シュヴァルツェンベルク侯爵(皇帝の側近)……………朝隈濯朗
ラウシャー大司教(ウィーン大司教)……………………安倍誠司
グリュンネ伯爵(皇帝の側近)……………………………石川剛
家庭教師(エリザベートの家庭教師)……………………七瀬りりこ
ヘレネ(エリザベートの姉)………………………………原宏美
マデレーネ(娼婦)…………………………………………可知寛子
スターレイ(エリザベートの侍女)………………………山田裕美子
ヴィンディッシュ(精神病院の女患者)…………………真瀬はるか

 上記以外にトートダンサーと呼ばれる男性ダンサーが8名が登場する。

★誰も知らない新演出のエリザベート

 最初に登場するのはルキーニ。裁判官の声に「皇后エリザベートを殺害した理由を述べよ」と迫られる。続いてエリザベートにまつわる人々の亡霊が登場し、それぞれにエリザベートへの思いを歌い始める。「誰も知らない、その愛エリザベート」という、地の底から湧き上がるようなコーラス。もうこれだけでワクワクが止まらない。

 今回から刷新されたというセットは、舞台上にほぼ常に人の背の高さより大きな台となる構造物が横たわっていて、その上と下をうまく使い分ける形式。水平方向の広がりはなく、ちょうどテレビ画面のように左右を区切られた中で、登場人物たちがドラマを展開していく。思いのほか舞台の左右も奥行きも狭く感じられる。

 松也ルキーニは、セリフも動きも硬軟自在。物語を引っ張る存在として登場するなり存在感を示す。セリフのキレもいい。

 城田トートは黒い大きな翼を付けて上から登場する。身長190センチくらいはあるのだろうか、周囲とはスケールが違う。ハーフの城田は顔つきも一人だけ異質だ。ただひとり人間ではない、怪しい雰囲気をまとっているのが見た目にもはっきりと分かる。

★少女シシィ、父マックス、母ルドヴィカ

 宝塚版なら肖像画の扉を開けて、詩の本を持った少女エリザベート(シシィ)が飛び出して来るところだが、東宝の少女シシィは暗い舞台の中スポットライトで浮かび上がる。手にしているのは狩猟用の銃身の長い銃。銃声に驚いて、父親マックスといちゃついていた家庭教師は慌てて袖に引っ込んでいく。少女と銃の不釣り合いな組み合わせが何やら暗示的。

 花總シシィはこの少女時代が実に見事に少女なのだ。お転婆で堅苦しいことは大嫌いの愛らしいプリンセスぶりが板についている。宝塚時代から少女役を得意とした人だが、昔と違うのは「声」だ。歌もセリフもしっかりとした地声。それがシシィの生命力の輝きを感じさせる。

 父親マックス役の大谷美智浩は、シシィの家庭教師とよろしくやっていて、娘のことは適当にあしらっている雰囲気。宝塚版の愛情あふれる父親に慣れている私には、随分と軽い芝居をするなぁという印象。家族のことより自分の趣味を優先する男だ。

 母親ルドヴィカは未来優希。宝塚時代からもそうだったが、この人は体格があって声量もある。このママなら娘を皇后の妃にするなんて朝飯前でしょ、という迫力。これでは夫が逃げ出すのも無理はない。

 シシィの「パパみたいになりたい♪」からルドヴィカの「ようこそみなさま♪」、そしてシシィの落下とトートと「愛と死の輪舞♪」という流れは宝塚版とほぼ同じ。ちなみに「東宝シシィはブランコから落ちる」と聞いていたのだけれど、今回の新演出ではシルエット映像で木から落ちた。細部への執拗なこだわりは小池先生らしいなぁと思う。

 城田トートは身体の大きさに似合わぬ密やかな佇まい。トート「閣下」というより精霊のよう。シシィを威圧する感はなく、そっと包み込んで生の世界に送り返す。たしかに、宝塚版のトートとは全然存在のあり方が違う。

★皇帝フランツと皇太后ゾフィー

 続いては若き皇帝フランツと皇太后ゾフィー、宮廷の取り巻きたちの登場である。田代フランツはさすが歌の人だけあって声はいいのだがどこかもの足りなく感じてしまう。皇帝の取り巻きの面々も歌は文句なしなのだが、言い方は悪いが少々仮装っぽく見えるのは衣装の着こなしのせいか?

 そこへいくと剣ゾフィーは「宮廷でたった一人の男」という形容がピタリとはまる重々しい風格で、高貴な家柄を支える強い使命感を漂わせている。元トップスターという人種は、どの人を観ても舞台での存在感の大きさが素晴らしいと思う。

 難曲「バートイシュル♪」でのお見合い場面。ルキーニ松也に続いて未来ルドヴィカ、剣ゾフィーが歌い継ぐのだが、未来・剣の「押し」の強い感じがとてもよく似ていて納得の姉妹っぷり。バイエルン出身の女は結婚して子供を産むと烈女になるという法則でもあるんじゃないだろうか、と思うほど。

 花總シシィと皇帝フランツの「あなたが側にいれば♪」のデュエットでは歌詞が宝塚版とはまったく違っている。「皇帝に自由などない」と歌うフランツに対し、「一緒に自由な世界へ」と希望を歌うシシィ。愛し合ってはいるものの、最初からすれ違う二人の思いがはっきり見える歌詞になっているのが面白かった。

★「最後のダンス」は踊れない

 皇帝フランツとエリザベートの結婚式、舞踏会と続き、あたりが暗くなるといよいよトートの登場である。「お前は俺と踊る運命」と激しく「最後のダンス♪」を歌う場面は、宝塚版ではトートの見せ場として知られている。だが、ここで踊るのはトートダンサーの役目で、トートは意外なほど動かない。

 一方、花總エリザはふわりとした動きでダンサーに抱えあげられると、体重がないかのように軽々と宙に浮かぶ。あ、この姿は見たことがある。そう、花總のリフトはいつもそうだった。彼女はいつも高く、そして軽々と羽のように上がるのだ。踊れる娘役はその後何人も見てきたけれど、舞台のセンターでこの技を自在に駆使する人はほとんど見かけない。残念なことだ。

 「ミュージカル俳優は宝塚みたいには踊れないんですよ」と、一幕が終わった後に同行した友人が解説してくれた。キャスト全員が「歌える」ということは、メインキャストでも踊れない人が結構いるということでもある。その部分はダンサーを入れて補う仕組みになっている、ということなのだろう。

 だが「最後のダンスは俺のもの〜」と歌う以上、トートがここで踊らないでどうする、と突っこみたくなる。「いやぁ、昔は城田君はもっと動けなかった。これでも随分踊れるようになったんですよ」と言う友人の言葉を聞いて、私は東宝ミュージカルも宝塚同様、出演者の成長を見守るという観客のあたたかい視線に支えられていることに驚いた。(もちろん、そうではない観客もいるとは思うが。)

★美貌に目覚めるエリザベート

 翌朝5時にゾフィーに叩き起こされ、前夜疲れからぐっすり眠ったことを責められるエリザベート。驚くべきことに、ここでゾフィーが真っ白なシーツを指差す。皇帝夫妻に初夜の営みがなかったことをあけすけに示してみせるのだ。宝塚版との演出の違いは色々あって、時折目につくのだが、宝塚歌劇の規範である「すみれコード」がないとこうなるのか、と妙に感心してしまった。

 夫が母ゾフィーの肩を持ったことで傷ついたエリザベートが歌う「私だけに♪」はエリザベート役を代表するナンバー。彼女の部屋の背景には巨大なハプスブルク家の紋章が見える。部屋には窓もない。セットの助けを借りることなく、か細いエリザベートが、決して自分らしさを失わずに生きて行くと自らに誓って歌う。花總は宝塚時代とは違って歌のほとんどを地声で歌う。力強い「私だけに」だった。

 東宝エリザは時代背景や史実に忠実である。ハンガリー訪問を成功させた皇帝夫妻は長女ゾフィー(皇太后ゾフィーが名付け親として自分の名を与えた娘)を失ってしまう。小さな棺桶を持ってトートダンサーが踊る。東宝エリザベートは、第一幕から死の影と隣り合わせだ。

 ウィーンのカフェの場面は、登場人物がほぼ男性ばかりである。「退屈しのぎにぴったり」の歌を男性コーラスで聞くのはなんだか新鮮だ。この場面で初めて登場するツェップスはマックスと同じ大谷美智浩さん。実を言うと、終演後プログラムを見るまでそれにはまったく気づかなかった。マックスの演技が軽く感じるのは、ツェップスとの「演じ分け」のため、ということもあるのかな。

★夫との対決、そして美貌の勝利へ

 続いて宮廷の廊下に少年ルドルフが登場する。剣の稽古をさぼって抜け出し、皇后ゾフィーに「ママに会わせて」と訴え、拒否されてしょんぼりする。この日の少年ルドルフは松井月杜くんだが、なかなかお芝居が上手い。幼いルドルフに皇帝の心得を説くゾフィー。まぁなんと厳しい教育ママならぬ教育おばあちゃんであることよ。

 皇后の居室は舞台の上に設けられた高い台の上。そこで正面を向いて机で書物をするエリザベート。下手側の階段を上ってきた皇帝フランツが扉の前で切々と妻に会いたいと歌うが、妻は「どちらかを選んで、お母様か私か」と最後通牒を突き付ける。トートが現れ再び彼女を死へと招くが、生きるための戦いの真っ只中の彼女はきっぱり拒絶する。

 ここでも背景は巨大なハプスブルクの紋章だ。エリザベートの闘う相手は権威やしきたり、皇后はこうあるべし、という規範であることをこの紋章の巨大さが象徴している。

 続くは「ミルク♪」の場面。食べるものにも窮するウィーンの市民たちの不満の矛先が皇后に向いていく。コーラスの迫力はなかなかものだった。この場面は出番のないキャストがアルバイト的に市民の役で登場しているらしい。友人から「未来さんが出ている」と聞いたのだが、大きな声は聞こえど姿は見つけられず。二幕から登場の京本ルドルフも居たようだが、探す余裕はなし。

 一幕最後の場面では、肖像画そのままの髪飾りと白い華やかなドレス姿のエリザベートが登場する。振り返る花總エリザの立ち姿は、美貌を武器に皇帝の譲歩を勝ちとった自信に満ちている。彼女もさすがに20代の瑞々しさみたいなものは失っているが、気品漂うドレス姿の美しさはさすが。

 銀橋のない帝劇でトートはどこに?と思ったら、エリザベートの後ろ、舞台上方に突然現れた。トートはあくまでエリザベートの影として存在するということだろうか。「私だけに」をアレンジしたエリザベート、フランツ、トートの三重唱で第一幕は締めくくられる。

★東宝エリザのキャストはアニメ的?

 一幕を終えて感じたのは、ずいぶんデフォルメされたエリザベートだなぁという印象だった。キャストの見た目の影響だろうか。華奢でか細く人形のような花總エリザ。それに比べると体格でふた回り以上大きい城田トート。誰よりもアクが強く、男臭い松也ルキーニ。頼りない田代皇帝と、風格のある剣ゾフィー。それぞれの性格付けも容貌も見事なまでに違って見える。ちょうどアニメのキャラクターのように、一人ひとりのキャラが立っている。

 中でも面白いと感じたのは、花總エリザベートと城田トートのバランスだ。城田のトートは現実感がまるでない。あれほど大きいのに、エリザベートの心の中に潜む影のようにすら見える。対する花總エリザベートは本当に小さく見える。舞台女優として帝劇で主演を張るには不利だが、それを補おうとするかのように、彼女は持てる技を駆使しして力強く演じている。

★「世界の美女」のいないキッチュ、早すぎる病院訪問

 第二幕も冒頭はルキーニの登場から始まる。だが、名曲「キッチュ」を歌う場所はブタペストのカテドラルの前。「世界の美女の写真を集める」という文字どおりキッチュなエピソードが見られないのはちょっと寂しい。代わりに舞台後ろのスクリーンには実在の皇后をめぐる様々な写真が投映される。

 ルキーニ役の尾上松也はこの役を自由闊達に演じている。多分、歌も譜面通りには歌ってない。演出家からも好きにやっていいと言われているんだろう。私は彼のルキーニを見て、以前テレビで見た橋之助や勘九郎の芝居(歌舞伎ではない舞台)を思い出した。多分、歌舞伎役者に共通する「見せ方」みたいなのが何かあるんだろうな、と思う。

 ハンガリー皇帝の戴冠式の後「私が踊るとき♪」へと続く。トートとエリザベートが掛け合いで歌うこの場面は、舞台上の絵面とは反対に花總エリザが城田トートをその貫禄で圧倒しているように見えた。花總まりのエリザベートは見た目には小さく、さほど強さを感じないのだが、彼女のまとっているオーラのようなものが、人生のステージに応じて劇的に変化していく。花總のエリザの見どころだ。

 少年ルドルフの歌う「ママどこなの♪」の場面に続いて精神病院への慰問の場面が来たのは意外だった。人生の絶頂期ともいうべき時でも、エリザベートの心中は複雑だった……という意味合いなのだろうか。「私はエリザベート!」と叫ぶ患者ヴィンディッシュ役は元花組男役の真瀬はるかでちょっと懐かしい。

★皇太后の企み、そして放浪の旅へ

 皇后の政治への影響力に不満を持つ皇太后ゾフィーと皇帝の取り巻きたちが「目には目を、ペンにはペンを、女には女を♪ 皇后以上の美人を♪」と歌う。ここは、取り巻きの重臣たちがマダム・ヴォルフの館を訪れて、女を物色するという形。

 マダム・ヴォルフ役は一幕でシシィの母ルドヴィカを務めた未来優希。この人のエネルギッシュなパワーの源はどこにあるのか?と思う迫力とパンチの効いた歌で舞台を支配する。登場する女たちは淫靡な衣装をまとっている。マデレーネがつけているのは貞操帯だろうか。「病気を持つほど仕事熱心」と歌われる彼女を取り囲むように重臣たちが連れていくところでこの場面は終わる。なかなか意味深。

 エリザベートが夫の裏切りを知るのは、体操室の場面で医者(に扮したトート)から「フランス病」という病名を聞かされたときだ。皇后としての立場を守るため過酷なダイエットを続けるエリザベートが、突然の発病によって夫の裏切り、それも相手が性病持ちの娼婦であることを知る。宝塚版の「夫と浮気相手の写真を見せられる」よりはるかにショッキングな展開だ。妻が夫を見限る理由としては十分過ぎるよなぁと、妙なところで感心する。

 マダム・ヴォルフの館から体操室の場面での一連の流れは、小池演出の匙加減の絶妙さに感心した。大人が見れば何が起きたのか察することができるが、劇場にきた子供が万一この場面を見ても親が恥ずかしい思いをするような表現にはなっていない。微妙なところで節度が保たれているのが宝塚の演出家らしい気配り。

 エリザベートが宮廷を出ていくという事態に、おとなしい皇帝フランツもついにゾフィーに抗議する。「あなたのせいで私の結婚生活は破綻した。もうあなたの助言は聞かない」と宣言するのだ。 田代フランツも二幕に入っての落ち着きぶりと、声で年齢を表現する技術はさすが。皇帝の何としても妻を取り戻したいという思いが見える。

 一人になったゾフィーは「ハプスブルクのためにしたこと、国を守るため」と歌って息絶える。東宝版ゾフィーは登場場面が多く、ソロで歌う場面もある。だからこそ剣幸(&香寿たつきのダブル)が演じているのだ。広大な帝国を維持するためなら手段をいとわない強さは、彼女なりの国家と皇帝への愛の表現だったのだと分かる。

 でも、皇帝夫婦を恥ずべき病に罹患させたのは、いくらなんでもやり過ぎだった。皇帝に美人をあてがうだけなら、もっと別のやり方があっただろう。結局ゾフィーもエリザベート憎しの感情に流され、やり方を間違えたのだと私は思う。

 ウィーンを出て諸国をめぐる旅に出たエリザベートが、ギリシャのコルフ島の別荘で一人思いを巡らせるという場面がある。詩を書こうとペンを手に取るが言葉が浮かばない。「ハイネよ、詩の書き方を教えておくれ」と歌うエリザベート。そんな彼女の胸に父マックスの姿が浮かぶ。エリザベートの心にある「死」の形がトートなら、彼女の憧れる「自由」を象徴するのが父親。父を思う娘の姿に、思わず私も涙腺が緩んでしまった。

 母と息子、父と娘、妻と夫。身近にある人と心をつなぐのはなんと難しいことか。地位のある人であればなおさら。遠い国の昔の王室の物語でありながら、登場人物の思いが心に刺さる。それが「エリザベート」という物語の魅力だ。

★ルドルフのターンは如何に?

 第二幕中盤からはいよいよ青年ルドルフの登場となる。皇太子ルドルフは、国の将来をめぐって皇帝と対立し、ハンガリーの独立運動の指導者とともに蜂起に加わって逮捕され、自殺に追い込まれる。いわば「ルドルフのターン」だ。

 「ルドルフのターン」は第二幕の大きな見どころだと私はかねがね思っている。エリザベートの人生は中年を過ぎて起伏が乏しくなってくるが、そこへ若きルドルフの波乱のエピソードが続く。父への反感、母への思慕とオーストリアに虐げられるハンガリーへの共感。トートに煽られ、死へといざなわれる若き皇太子の哀れな姿が、物語後半に大きな山場を作る。

 この日のルドルフ京本大我は若干20歳。色白で面差しはやや女性的。とりわけ口元が優しさと弱さを見せていてルドルフ役にはうってつけの容貌だ。お芝居と歌は少々歯がゆい感じだったが、ダンスがいい。とくに死への誘惑、トートダンサーに翻弄されるダンスが素晴らしかった。

 ただ、せっかくの「ルドルフのターン」なのに演出には不満が残る。彼の感じる危機感の象徴として、舞台上に巨大な鉤十字の旗が登場するのだが、ナチスは時代的に少々早すぎはしないだろうか。ルドルフがハンガリーの王位に思いを馳せる場面もあっさりしている。一番残念だったのが城田トートと京本ルドルフの「闇が広がる♪」。もう少し踊ってくれたら嬉しかったのだが。

 いや、もうこれ以上は言うまい。私自身が宝塚版の「ルドルフのターン」の演出を相当に気に入っている、ただそれだけのことだ。

★そしてトートの元へ

 ルドルフの葬儀に姿を見せたエリザベートは、息子の死を嘆きトートにその身を投げ出す。だが「まだ私を愛してはいない」と今度はトートが拒絶する。今回、この場面がすっと胸に入ってきた。彼女は息子の命を救ってやれなかったことを死ぬほど後悔しているが、死にたいわけではない。思いを貫いて生きることこそ彼女の誇り、彼女の道。息子にもそうあって欲しかったのだろう。

 宝塚版の演出だと、この直後にトートの「愛と死の輪舞♪」が入る。黄泉の帝王トート閣下がエリザベートを愛し、その愛に苦悩する様を存分に見せてくれるのだが、東宝版にはこれがない。城田トートはエリザベート自身の死の願望の象徴であり、トートとエリザベートの会話はエリザベートの自問自答であるかのようだ。

 続いてはルキーニの登場。キッチュを歌うと、背景のスクリーンに史実に残るエリザベートの写真が投映される。息子の死を嘆く彼女の姿は市民の同情を買ったそうだ。だが、それでも彼女は皇帝の下へは戻らなかった。

 そんなエリザベートを皇帝が旅先に訪ね、「戻っておいで」と語りかける二人のデュエット「夜のボート♪」。もう一度寄り添いたいと願う皇帝に「分かって、無理よ」と答えるエリザベート。一幕で「あなたが側にいれば♪」と歌った二人がなぜこうなってしまったのか。同じメロディーで歌われるのが痛々しい。田代フランツはエリザベートへの思いが全開なのに、花總エリザベートの思いは内へと向かっている。

 続く場面は「皇帝の悪夢」。内容はまさにフランツの見た悪夢。メキシコ王になったフランツの弟や、各国の王家に嫁いだエリザベートの妹たちの非業の死を遂げていく。妻エリザベートの身にも死が迫る。フランツは「彼女は私の妻だ」と叫ぶのだが、トートが「彼女を幸せにできるのは私だけ」と、ルキーニを呼んでナイフを渡す。

 私はここでトートが白い衣装で登場したのに驚いた。白は天使の色、救済の色じゃないのか。皇帝の見る禍々しい夢の中で、妻エリザベートを奪っていこうとする死の姿にしてはあまりに美しい。ここで白い衣装になっておかないと、エリザベートの昇天までの間にトートが白に着替える暇がないのだ、ということは十分過ぎるほど分かってはいるが、でもここは黒だよなぁと思う。

 高い台の上からトートがポトリと落としたナイフを下で受け取るルキーニ。よく毎回うまくキャッチできるものだ。落としたらどうするのよ、と過去のルキーニの失敗談を知る者としてはハラハラする。

 そして暗殺〜エリザベートの死へ。エリザベートは死を迎えると、舞台上で自分で黒衣のドレスを脱ぎ捨て白いシンプルな衣装になる。一瞬「えっ」と思うけれど、自ら自分の命運を見定めてきた彼女が、死を選び取ったことを考えるとこの演出もありか。

 ラストシーンはエリザベートがトートの元に駆け寄って彼と抱き合った後、後ろからせり上がってきた壁に寄りかかって一人安らかに眠る。宝塚版「ロミオとジュリエット」のエンディングによく似た形だった。一人で生き、一人で死んだエリザベートにはふさわしい。

★花總まりあってのエリザベート

 宝塚版は男役トップスターが演じるトート役が重く、エリザベートは主役ではない。東宝版エリザベートはまぎれもない主役。主演経験の少ない(宝塚時代、彼女の主演作というのはほぼないに等しい)花總に帝劇の主演が務まるのか、私は密かに心配していたのだが、それは杞憂だった。

 今日、私が見たのはかつての娘役花總まりではなく、女優花總まりだった。二幕のエリザベートは、年を追うごとに孤独が深まり、その美貌も陰り、容赦なく老いていく様が表現されていた。夫への愛と息子を失ってもなお、自分の選んだ道を歩み続けていく。彼女はそんなエリザベートの姿を私の心にしっかりと刻みつけていった。

 東宝版エリザベートでは、エリザベートがスイスの銀行で蓄財していた話をルキーニが語っていたり、歴史に残る彼女の写真の数々が投映されたりする(そして、その分ルキーニのセリフの量が多い)。エリザベートという女性の存在が、やがて滅びるハプルブルク家への「とどめの一撃」だった、と演出上もはっきり指摘されている。ある意味史実に基づいた、実像に近いエリザベートだったことも、宝塚退団後の紆余曲折を経てミュージカル女優として復帰した花總まりにとって良かったのではないと思う。彼女の熱演には心からの拍手を送りたい。

 もう一つ痛感したのはこのミュージカルの曲の素晴らしさと、展開の無駄のなさだ。始まって終わるまで観客である私の目と耳を惹きつけ、三時間があっという間だった。ふだん宝塚ばかり見ていると、見た目の美しさ、キャストの若さが放つ輝きにばかり目がいってしまいがちだが、今回はこの作品の持つ魅力を堪能することができた。

 別のキャストでの上演も見てみたいが、公演日程も終盤、おそらく難しいだろう。それだけが心残りだ。

【作品データ】ミュージカル「エリザベート」は脚本・歌詞ミヒャエル・クンツェ、音楽・編曲シルヴェスター・リーヴァイ、演出・訳詞小池修一郎、東宝製作。演出、セット、衣装を一新し、2015年6月13日〜8月26日東京・帝国劇場にて上演。

#宝塚 #takarazuka #ミュージカル

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