「生活している」それだけで立派!
5年前に住んでいた家の近くを車で通りがかる、ということをした時にふと感じた思いがあります。
それは、「生活をしていく」ことが、それだけで立派なんだということ。
今日はこの思いについてくわしく掘り下げていきますね。
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かつて住んでいた家の近くを通って思い出したこと
わが家は以前、茨城県水戸市に住んでいました。
千波湖という冬になると白鳥や黒鳥がたくさんやってくる湖があって、その一帯が公園になっています。
そこに幼い頃の娘をよく連れていってました。
先週末にその千波湖の近くまで行ったので、せっかくだから降りたってみようと中に車を進めていったんですね。
駐車場に停めようとしたんだけど、いつもは無料の駐車場に500円って書いてあって係の人が立っていました。
「あ、梅祭りの時期か!有料になってるわー。」ってすぐ気が付いて。
千波湖の一帯の公園は、日本三大庭園のひとつで梅が有名な偕楽園に繋がっています。
3月は梅が咲き誇る「梅祭り」の時期だから、近隣の駐車場が有料になってしまうの。
その時期でも無料のままの駐車場も知っていたけれど通り過ぎてきてしまっていたし、見たかった白鳥もみあたらなかったし、車は停めずに車窓から風景を楽しむことにしました。
わたしは自分が駐車場の情報を覚えていたってことに軽く驚いたのだけど、それよりもびっくりしたのが夫が全然覚えていなかったということなんです。
「千波湖の近くって駐車場あったっけ??」っていうレベル。
千波湖を抜けて、もと住んでいたエリアにもっと近づいた時にも同じようなことが次々と起きました。
「あ、あのケーキ屋さん、好きだったところ。」
「ほら、あのパン屋さんでよく買ってた!」
「この車線は左折専用になっちゃうから、気をつけないと。」
「このスーパー、家から一番近いところのやつ!ほら、そこの角まがったらすぐ家があったところだよ!」
「いま通り過ぎたお店で娘の椅子を買ったんだよ、覚えてる?」
なんてわたしが言うんだけれど、夫はあんまりピンと来ていないの!
一緒に暮らしていたのに!!
よくよく考えると、わたしがよく覚えている場所は平日の昼間に子どもを連れて行っていた場所なんですよね。
夫は営業職だから市内の担当エリアのことは詳しかったけれど、家の周りや生活に密着した場所のことはほとんど覚えていない。
それに気づいた時にね、ああわたしこの場所でちゃんと生活していたんだな、って思ったんです。
夫が仕事をしていたように、わたしも子どもを育てて家庭を回すということをやっていたんだなって。
なにも成していないと思っていたあの頃
そこに住んでいたのは娘が1歳から2歳半までの1年半。
子どもを育てるだけの毎日っていう感じで、自分が何にも成していないと感じていました。
ただただ日々を暮らして、子どもを遊ばせて、それに精一杯だった。
働いてなかったし、お金を稼ぐこともできずにいたし、何も前に進んでいないって精神的に焦っている時期だった。
とにかく何もできていなくてもがいているような時期だった、という記憶があります。
でも5年経ってまたその場所に行ったら、夫も知らないその土地の情報を知っているわたしを発見できたんです。
わたしはここでちゃんと生活をしていた。
お金を稼ぐとか、目に見える成果を出せていたわけじゃないけど、この地で幼い子どもの世話をして、家族にご飯を作って、生活していたんだなって。
当時はその生活さえまともにできていないように感じていたけれど、ちゃんと土地に根付いて生活できていたじゃん、それだけで立派だったよ!って思いました。
5年経って子どもも大きくなりその頃とは違うことをやっている今のわたしが、5年前に暮らしていた場所に降り立つと、こんな感情が沸くんですね。
渦中にいる時は見えなかったけれど、振り返ってみて見える景色は思いのほか雄大でした。
「生活している」それだけで立派!
今なにもできていない、焦ってしまう、そんな風に感じる時期って誰にでもあります。
でも、「生活をしている」ってだけですごいんです。
わたしも今だってまだもがいているような感覚はあるし、これから先もきっとあると思う。
人生はすべてがうまく行っている時ばかりじゃないから。
でも、ただ過ごしているだけに思えるような時も、「生きて生活している」ことは「歩み」になっています。
車でかつての生活圏を通った時にふとこの思いを感じた時は、ちょっとした些細な気づきだと思っていました。
一晩たってみたらやけにじわじわと胸にこみあげてくるものがあったので、こうやって言葉にして残しておきます。
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