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閉ざされた空は雨模様

昨日、東京ではまとまった雨が降った。平常時の2割とも3割とも言われる人出はさらに減少し、ところどころの家から漏れる子供たちの声が、私の中でやけに寂しさを募らせた。

不要不急の外出は控えるように、と言われる。目的は、他人との接触の機会を減らすため。寂しいことだが、致し方ない。ただ、ジョギングやウォーキングはもちろん、公園で遊ぶのも含めて、ストレス発散や運動不足解消の観点からは推奨されている。それぞれが節度を持って、直接接することはできなくとも、遠くで温かく見守る社会であってほしい。

そんなことを考えながら、私は雨の中で車を走らせていた。ふと思い立って、後部座席に愛用のギターを載せて、行く先も決めずに家を出たのだった。もとより誰かに会うつもりはないし、強いて妹を連れてゆく理由もなかった。閑散とした道を独り無言で進む。

結局、港の見える広い公園の駐車場に車を止めた。家を出発したときに自動販売機で買ったコーヒーは、とうに冷めてしまっている。それを一口すすってから、後部座席に移ってギターを抱えた。自然と、ため息が出た。

弾きたい曲などなかった。ただ頭に浮かんだコードを鳴らしてみる。そして歌ってみて、どこか違うと思って途中で止める。なぜか、どんな曲もしっくりこなかった。しばらくそんなことを続けていて、ギターをケースに収めた。

音の生まれない車内に、雨音だけが規則的に不規則に、無表情に響いている。それを聞くともなく聞きつつ、頭に浮かんでは消えるものに思いを巡らせていた。

そういうとき、私は決まって虚無的になる。普段は、人生には意味があると思って生きている分、その反動があるのかもしれない。様々なことに敏感になりやすいこの時代。もっとおおらかな無関心を大切にしたいと思った。

人間関係とか恋愛とか、ひとはひとを求めて生きている。そこへやってきた他人との距離を確保するようにという昨今の要請は、ひとの根本の部分を揺るがしかねない。ただ、それは同時に、「誰か」という存在を求めすぎてしまう私たちが、ほんの少し自立する契機にもなりうる。あるいは、他者の存在の必要性を本当の意味で知ることになるのかもしれない。

帰り道、電車のガードの下を通ると、一瞬雨音が消えた。そんなときに、別世界へ行ったかのような感覚に包まれるという話を、前に聞いたことがあるのを一人思い出してから、私は交差点を左に曲がった。

西の空は明るかった。

(文字数:1000字)

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