見出し画像

ハル、生と性を語る。

最近、よく「ハルさんってどんな人生送ってきたんですか?」とか聞かれるから、思い出せるまま書いてみた。需要あるのか知らないけど。長いので注意。

ハル、東京の工場地帯に生まれる。

生年月日は1989年3月3日。ひな祭りの日に生まれたけど、あんまりひな祭りを盛大にやった記憶はないし、誕生日の夕飯は毎年ケンタッキーだったから、日本文化とは?って感じ。

春菜っていうのが本名。家でも外でもハル、って呼ばれてきたから、仕事上もハルで通してる。そもそも春に生まれたから春菜って、安易な気がするけど。まあ、それなりに気に入ってはいるからいいか。ハル監督って書くと海外の監督だと思われて、実際を知って「なーんだ」みたいな顔されるときは不満だけど。

生まれたのは東京の南の方の工場地帯。町工場がいっぱいある路地の片隅の家で、ご多分にもれず我が家も町工場。兄も私も、今どき珍しく家の中で生まれた。妹と弟は病院で生まれたから、なんとなく不公平? そんなこんなで、両親と子供4人きょうだい、そこに祖父母も2組揃ってたもんだから、狭い家でいつも人がごった返してた。誰かしらが何かしらしゃべってたから、一日中静寂がなかった。もはやカオス…。

大人になって今の仕事を始めてからは、まあ時々テレビにも出るようになったせいか、「ハルさんが町工場で生まれたなんて意外」みたいなこと言われるけど、逆に町工場に生まれたっぽい人ってどんな人だ? どこに生まれても、人となりはいろいろ変わるよっていつも言ってる。ただ、私の作品にも町工場での思い出というか記憶が反映されてるっていう面もあるから、悪い経験ではなかったかなと。手前味噌で申し訳ないけど、2019年公開の『天空を翔ける白馬たち』の冒頭10分間のワンテイクのシーンは、まさにその経験が生きてると思ってる。

そうそう、映画との出会いも、生家から徒歩5分の駅前通りにあった小さい映画館だった。幼稚園の頃だったから、4歳か5歳の頃だと思うけど、『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』を観て感動したんだよね。ビービー泣いて、連れてってくれた母から、「このストーリーで泣く幼稚園児なんていないよ」とか言われた。ませてたのは確かかな。でも、今観ても本当に泣けるから、観たことない人はぜひ観てほしい。

ちなみに、私の作品の特徴といわれているヌードの撮影のきっかけも、この町工場にいた頃の話なんだけど、それは下の方でまとめて書くので割愛。

ハル、引っ越しまくる。

町工場の街に住んでいたのは6歳まで。そのあと、神戸・札幌・再び東京・仙台・高松・福岡と、高校3年生までの間に全国各地を転々と飛び回ってた。父の転勤のため、ってことになってるけど、実際は兄の非行というか破壊行為のせい。5歳年上の兄は、小学生の時から先生にかみつく(物理的に)、物を壊す。中学校に入ったら、よくあるやつだけど煙草を吸い始めて、許可されていない通学自転車を教室まで乗り入れていったりしてた。まあどこの学校に行っても邪魔者扱いされてたみたい。

兄は全然先生にも従わないくせに、学校には遅刻もせずに皆勤賞で行くものだから、もう一日中、校内の風紀を乱しまくる。高校に入って退学になったのは札幌にいた時だけど、仕事を始めてからも職場や家の近所で迷惑ばっかりかけるから、家族としてもとても一か所には留まっていられなかった。どこかで兄と別々の生活をすればよかったんだろうけど、そんなことして尚更エスカレートされても困るということで、ずっと一緒。

迷惑こうむるのは私たち家族。私だって、学校でようやく仲良くなれたと思ったら転校、転校。結局、友達という友達もできないまま、今に至る。いろんな街のいろんな人と触れ合うことはできたけど、一人くらい心を許せるような知り合いを作りたかった。今は、その孤独感が仕事に役立っていると思うことにして、明るく捉えてる。

引っ越し先の風景は、どこも印象的。神戸港の夜の風景を見たときは、東京の夜景は汚いなと思ったし、次の札幌は、まっすぐに伸びた大通公園が今でも夢に出てくるぐらい記憶に残ってる。仙台にいたときは、定禅寺通の光のページェントが天の川みたいだった。高松駅は、高徳線の進行方向が切り替わって楽しいし、福岡・天神は、高3の私にとっては怖くもありきらびやかでもあって、大人になりたいってすごく感じる場所だった。

引っ越しは、強制的な出会いと別れの瞬間だと思っていて、あまり好きじゃない。でも、それが後々自分自身にどんな影響を与えるかもわからないし、あのまま町工場の煙を吸って生きていたらどんな映画を撮ってたのかなと思うと、人生って楽しいなと思う。まあ、もちろんもう一生引っ越しはしたくないけど(笑)

ハル、一般企業に就職する。

別に隠してきたわけではないけど、あまり公にはなっていない話かな。はい。大学を卒業してから、一時期一般企業に勤めていました。って話。

大学の専攻は日本文学史だったけど、その頃から映画の世界で働きたいとは漠然と思っていて、個人的にそういう仕事を調べたり、その手法みたいなものを勉強したりしてた。でも、なかなか勇気が出ずに、周りの子と同じように就活をした。そうはいっても、別に興味のある仕事が映画の他にあるわけじゃないし、とりあえず働けるところって感じで、食品メーカー、服飾メーカー、旅行代理店…、と職種も業種もばらばらに、通勤しやすいところっていうのを優先で受けては落とされてた。最終的に奇跡的に受かった会社は小さい貿易会社。1年ぐらい事務員として働いてたけど、「やりたいのは違う」って思い始めたら止まらなくなって、結局辞めた。

でも、辞めたいって話をしたときに、上司が励ましてくれたのはうれしかった。「この会社を辞めて、どんな仕事をしようと思ってる?」って優しく聞いてくれて、ちょっと恥ずかしかったけど「映画監督になりたい」といったら、満面の笑みで「監督作品、絶対に観に行くからな」って。実際に、私の最初の監督作品になった短編映画の『雫の流れと水の音』(2014年)以来、全作品を観てくれているらしい。本当にうれしい。

その時の同僚とは今でも連絡を取り合ってて、この間も誕生日プレゼントが宅配便で送られてきた。何が入ってるのかなと思ったら、地球儀。「ハルの映画が地球規模になれますように」って書いてあって、号泣した。こういう時、やっぱり持つべきものは友達だなと思う。

ただ、職場でたくさん嫌なことがあったのも事実で、それが浄化されているわけではない。その中でも悪夢だったのが、飲み会の席。今どき上司が私にお酒を無理やり飲ませたり、酔ったふりをしているのか本当に酔っているのか、私の体をベタベタ触ってきたり。挙げ句の果てに、私が「そろそろ帰ります」って言ったら、「もう一軒行こう」の一点張り。それ以降、私は外でお酒を飲むのをやめてしまった。あんな思いは一生したくないな。

まあ、そもそも私が仕事ができない人間だったっていうのも、モチベーションが下がる原因ではあった。仕事ではミスばっかりだし、上からはしょっちゅう怒られてるし。そのうち、出社時間を守る理由もわからなくなって、遅刻したりしてたし(笑)

もしもこれを読んでいる人で、企業就職以外でやりたいことがある人がいたら、ぜひそのまま道を突き進むことをおすすめします。私が保証するから。

ハル、猿山監督と出会う。

そんなこんなで、ようやく今の仕事に就こうと決心したのが、23歳の春。でも、映画業界に知り合いもいない私が、どうやれば入り込めるのか、全く分からなかった。

配給会社なんかに就職して、そこからツテを作って…っていうのも考えたりもしたけど、もう新卒の時に会社員生活が無理だって気づいちゃってたから、とてもその気にはなれなかった。もちろん、もっとストレートなのは映画制作会社に入社することだけど、それは新卒のときにもれなく落とされてたから、再チャレンジは諦めたんだよね。

映画監督になりたいという思いだけあって、それに向けた頑張りに関してはやる気0だったわけだけど、当時の私に残ってた最後の武器が、怖いもの知らずだった。その年の7月に公開された『THE MONKEY BUSINESS』という映画の試写会を観に行って、舞台あいさつが済んだ直後の猿山美辞夫監督に一人で話しかけに行った。

最初は「誰だこいつ」みたいな顔をされたけど、弟子にしてほしいと言ったら、すぐに頷いて「それなら猿山オフィスにおいで」って答えてくれた。もう背筋がゾクゾクするくらいうれしくて、もうその後何を話してどうやって家に帰ったのかも覚えてない。両親いわく、帰宅した私はだらしない顔をしてたとか。もともとそういう顔ですよーだ。

翌日、早速猿山オフィスへ。渋谷駅から東横線に乗ること10分ほど。自由が丘に事務所がある。私はもう駅に降りたときからワクワクしちゃって、街そのものがキラキラして見えた。オフィスの近くまで行くと、猿山監督が直々に待っていてくださって、ペコペコペコペコして挨拶した記憶がある。

猿山監督は、日本ですごく有名!っていうわけじゃないけど(失礼)、国際的な賞も獲っている実力派。知らない人のために少し補足しようかな。

1965年生まれで、今55歳。映画俳優だったご両親(猿山鳥次郎さん、犬飼猪子さん)の影響で、小さい頃から映画監督の夢を持っていたとのこと。助監督としてのデビュー作は、かの有名な本格SF映画『丑より寅が後回し』(1992年)。この事実、意外と知られてないんだよね。それからどんどん本領を発揮して、監督作品最大のヒット『ヘビもタツのがウマいのネ』(2008年)を公開。CGを積極的に効果的に使ったSF映画の、それはそれはすごい大家なのだ(笑)

話は戻って猿山オフィス。そんな猿山監督の事務所なので、さぞかしSFシーンの資料とかたくさんあるんだろうなと思ったら、部屋一面に裸体の写真だらけ。男性も女性も被写体になっていて、正直なところ目のやり場に困った。棚にぎゅうぎゅうに入ってる「銀河系撮影の構図・ノウハウ(禁帯出)」みたいなファイル類が申し訳なさそうに見えるくらい。

そんな私の様子を見た猿山監督は、「びっくりした? 今日は休みだから誰もいないけど、ここで何人も毎日作業してるんだよ」と余裕の顔。私は思わず聞いてしまった。

「なんで裸ばっかりなんですか!?」

それに対する回答が、かっこよかった。
「裸を見て恥ずかしくなるのは、人間として当たり前のことだよね。でも、当たり前のことを当たり前じゃなくしてみる。つまり、恥ずかしいものを恥ずかしくなくしてしまう。そうすると、新たな世界が見えてくるんだ。
 僕の描くSFの世界は、現実ではありえないものだよね。ありえないものを作るためには、今あるものを壊してしまうことも方法のひとつなんだよ」

私はショックを受けた。私の知らない世界がここにある。この瞬間に、自分の生きる場所は映画の世界だと決心した。改めて私は猿山監督に弟子入りをして、本格的に映画の勉強を始めることになった。

猿山監督には、本当に色々なことを教えてもらって、色々なことを吸収させてもらった。私が助監督として製作した『干支が濁れば江戸になる』(2013年)は、『ヘビもタツのが~』に次ぐヒットになって、自信もついた日々だった。ちなみに、『THE MONKEY BUSINESS』は、初めて英語の題名をつけたものの、全く売れなかったらしい…。

ハル、映画監督になる。

そして独立。実は猿山オフィスで働いたのは9か月間。猿山監督から、「誰かの色に染まる前に自分の色を出せ」と言われたから。猿山監督のおかげもあって、すぐに御茶ノ水駅の近くに自分の仕事場を構えることができた。これが、今も私が仕事をしているスタジオハル。

独立してすぐに脚本を書いた。上の方でも書いた『雫の流れと~』がそれ。SFは猿山監督の代名詞だから、絶対に侵すことはできない。それで、私は"人間味"のある作品を作ろうと思った。そのときに、絶対に入れたかったのが、ヌードだった。

お待たせしました、ようやく町工場の話とヌードが繋がります(笑)

生まれ育った町工場の街。当時の家で、2階の私の部屋の窓を開けると、隣の家の1階に娘さんの部屋の中が見える角度だった。別に覗くつもりはなかったけど、向こうの窓は頻繁に開いていたし、私よりも一回りも大きいお姉さんだったその人の生活がなんとなく気になって、見てしまうときもあった。

そんなある日、ふとその部屋を見たら、娘さんの彼氏さん(と思われる人)がいて、二人とも裸になっていた。当時の私はあまりに小さくて、何が起きているのか考えることすらしなかったけど、その景色がすごく印象に残っていた。何か楽しそうな、でもちょっと暗いような、そんなもやもやとした様子が、やけにきれいに見えた。ませていた私のことだから、おぼろげに感じた「大人っぽさ」に酔ったのかもしれない。

そして自分で映画の脚本を書く段になったとき、猿山オフィスの裸体写真と繋がって、ヌードを描くことが、まさに"人間味"を表現できるんじゃないかと思った。観る人からすれば、いやらしいとか恥ずかしいとか、そういう思いが芽生えるとかもしれない。でも、そういうシーンを淡々と、しかし爽やかに映すことで、観ている人のほんの一部だけでも、新たな世界の鍵を見つけてくれればという考えでいる。

『雫の流れと~』以来、私の映画のキャストは全員オーディションで選んでいる。初めの頃は、主演に選ぼうとしたキャストに、ヌードのシーンがあると話すと、辞退してしまうということもよくあったけど、最近はそれを承知で申し込んできてくれる。それでも、逆に「ヌードになりたい」という考えがある人は選ばない。その人を選んだ時点で、"人間味"のないマネキンになってしまうから。恥じらいを解放したいからこそ、恥じらいのある人でなければならない。そう思う。

……実は、私もヌードを撮られたことがある。いや、正しくは、撮らせた。28歳の時だったかな。これから30代に入っていくんだな~と思ったときに、20代の爪痕みたいなのを残したい、って気になった。そのときはもうバンバン女優のヌードを作品に取り込んでいた頃だったけど、それまで一度も自分が脱ごうとなんて思わなかった。それも当然、撮影現場で監督が全裸なわけにはいかない(笑)

ふと自分が脱いでみようと思った。実際に、今までの女優や俳優の身体を見ていても、やっぱり年齢の違いは隠せないことが分かっている。それなら、自分がこの歳でここにいたという事実は、裸体でしか残せないような焦りみたいなものも感じ始めた。

それで撮ってもらったのだ。誰に? 兄に。あの非行少年に。まだ自分の方向性さえ見つかっていない兄だったけど、私を撮るときは真面目に撮ってくれた。余計な口も挟まずに、淡々と。それが心地よかった。撮影が終わったとき、兄は一言漏らした。

「俺も春菜みたいに真剣になりたかった」

もう遅いよ、とも、まだ大丈夫だよ、とも、言えなかった。その瞬間の兄こそが、本当に真剣だったから。

……おっと、仕事の話になると真面目になっちゃうな。ヤバイヤバイ。方向修正するよ~。

ハル、これからを語る。

……なーんて見出しをつけてみたけど、正直何も分かってない。きっとこれからも、映画を撮り続けていくと思うし、その中には女優や俳優のヌードをしっかり入れていくだろうなと思う。ただ、それだけ。

でも、アダルトビデオを撮るつもりはない。決してどっちがどうとか比べるわけじゃなくて、どっちも人間にとって大切だと思うから、一方がもう一方に寄せていくべきじゃないと思うんだよね。アダルトビデオは、人間の性の部分、私の映画は、人間の愛の部分を描く。それはどちらも人間の本質で、結局そこで求められるシーンは、同じように性行為になってしまうというだけだと思う。もちろん、私の映画でも、ヌードは出てきても性行為はないという作品はいくつもあるけど。それはそれで、私なりの愛を表現しようと思っているし、同時に精神的な愛、いわゆるプラトニック・ラヴというものも描こうとしているのもまた事実。

だから、これからどうする、とかっていうのはないけど、私は自分のスタンスを持ち続けながら、さらに多くの人の心に響くような作品を作りたいと思ってる。

もうひとつ、個人的な話をすると、先日結婚しました。私の作品にずっと出続けてくれていた俳優の野村不動さんと。彼にもしょっちゅうヌードになってもらったこともあって、周りの人からは「見慣れちゃってて夫婦生活も淡白になりそう」なんて言われるけど、全然そんなことないから!(笑)ちゃんと夫婦やってます。

そんなこんなで、私の話もそろそろ終わりかな。私のこんな話、需要があるとは思えないけど、自分の今の位置を記録しておくためにも、書いてみました。

以上。

Halよりひとこと

書きあげるのに1週間、推敲にまた1週間を要しました。元にした投稿があるわけではありませんが、この企画のきっかけとなった投稿(これ自体は再発見できず)と同様の投稿を何編か読んで、その共通点を洗い出して私が構成したものです。

個人的には上出来な文体模写という気がしています。記述内容についての賛否は別問題でお願いします。そもそも私自身も、こういう文章は好みません。あくまで一作品として捉えていただければ、これ幸いです。


有効に使わせていただきます!