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描いた記憶は印象派

「そのボタンをタップするの、緊張しますよね」
若い店員はそう笑いかけてきたが、それでも私は「ええ」という短い応答の他には、引きつった微笑を返すことしかできなかった。画面には、スマートフォンのデータを初期化するという内容と、その操作を巻き戻せないという注意が大きく映し出されている。

――それはもう半年前のことになる。携帯電話の利用料金の見直しをしようと思い、販売店へ行った。店員は様々な説明をしてくれるし、私も調べた限りの情報をもとに、多くの質問をした。結果として、回線の契約をし直すという結論に至ったのである。キャリア会社は変わらないが、電話番号もメールアドレスも一新されることになった。

思えば中学1年生のときから利用し続けてきた番号とアドレス。番号が090で始まるということだけでも、同年代では少々珍しかった。それを失うというのは、いささか寂しさがある。

しかし、それ以上に喪失感があったのが、冒頭で描いたデータの初期化の瞬間である。今回は、機種ごと返却することになったため、データの消去が必要だったのだ。

写真データなどは事前にクラウド上にアップロードしていたため、次機種でも引き続き見ることができる。しかし、メールの履歴は引き継ぐことができなかった。中には、思い出深いメールが自然に消えないように保護(保存)していたものもある。それらも含めて、指先ひとつで「初期化」を選択した瞬間に、跡形もなく消えてしまうのである。これまでであれば、機種変更後も古い機種は手元に残ったため、再度起動すれば見返せていたものが、今回はその機会さえも完全に失われることになる。

写真や動画よりも、誰かからの言葉が、私にとっては明らかに重く、意味を持つものであることに、今更ながら気づいた。確かに写真には記憶を呼び起こす力があるが、言葉にはそれに加えて血の通った温かさがある。更に言うとすれば、写真は視覚を固定するもの、言葉は心情を固定するもの、といったところだろうか。

ただ、半ば強がりもありながら、それでよいのだ、という気もする。インターネットを通じてあらゆるデータを保存し、半永久的にアクセスできる社会が理想かと聞かれれば、自信を持って頷くことはできない。

薄れ、消えゆくものこそ、私たちには大切なのだろう。胸の中のぼんやりとした記憶が、日々の曖昧な推進力になっている。そのおかげで、ひとは今を生きることができるのだと思う。

(文字数:1000字)

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