見出し画像

Time Flies

「年齢を重ねると一年が早く感じられる」というのは幼い頃から耳にしてきた話ではあるが、確かにその通りだと感じている。まさに加速度的という言葉がしっくりくる。そこには、大人になってしまったということの寂しさと、もう子供ではないのだという嬉しさがある。この複雑な感情も、いずれは寂しさが嬉しさを押しつぶしていくのだろうか。

楽しいときはすぐに過ぎてゆく。友人と遊んでいるとき。趣味に熱中しているとき。好きな人と一緒にいるとき。一時間が一秒に、一日が一時間になったような感覚さえ覚える。光陰矢のごとし、とは言い得て妙であって、空気を切り裂く矢の軌跡のように、普段あるべき時間の流れを突き破るような突風を感じるものだ。

それでは、年齢を重ねるほど毎日が楽しいのかといえば、必ずしもそうではないだろう。自由が増え、失敗が減っていくことが、人生の楽しさを彩るわけではないはずだ。むしろ、学生時代とは違って単調な日々に身を委ね、多かれ少なかれ社会的な孤独をどこか感じながら生きている。

「大人」をすることはつまらない。きっと大人という存在は幻想で、誰もが心の中に「子ども」を持っている。そして、ある年齢を越えると「大人」を演じ始めるのだ。

それは自分の中にある繊細な子どもの心を傷つけないために。

「大人」として何事にも無関心を装い、知らぬ間に誰かを傷つけ、誰かに傷つけられている。それを見て見ぬふりをするには、私たちは無邪気な子どもではいられないのだと思う。2時間の映画でほんの数分間を描くことができ、数万年の歴史を凝縮させることができるように、「大人」を演じているときには、現実の時間などには関心を払う余地がないのかもしれない。ふと気づいたときには時が経っている。

そしてもうひとつ。子どもの時間と大人の時間が違うのは、「今日」の濃度が日々薄まっていくからなのではないか、と思う。極端に言えば、1歳の子にとって365分の1である「今日」は、100歳の人にとって36,525分の1になっている。高齢の人が泰然自若としているのは、「今日」を達観する境地に至ったからなのだろう。些細なことに揺れない。それは素敵なことだ。

今日で25歳になった。

ほら、また一日が間もなく終わりゆく。今日もまた、誰かを傷つけ、誰かに傷つけられたのだろうか。その一方で、確かに私が受け取った今日の幸せを、誰かに同じように与えられていたのなら、それでいい。

(文字数:1000字)

有効に使わせていただきます!