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平成の終わりに~JR福知山線脱線事故と私

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平成の2年前、1987年に発足したJRという鉄道会社。そのひずみが、平成のほぼ真ん中で引き起こした死者107人の鉄道事故。あれから14年。それを見続けていた私。
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#鉄道

関西出身でないことは罪なのか~JR福知山線脱線事故、ある遺族とのこと

(記事一覧) JR福知山線脱線事故で、取材に応じる被害者の心境にはいくつかの類型があったこ…

よっしー
5年前
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手紙を書く~取材に応じてくれる人を掘り起こすために

(記事一覧) 時間の経過とともに、遺族の心境も落ち着いてくる。それは、取材をする側にとっ…

よっしー
5年前
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令和の始めに~なぜ被害者は取材に応じるのか(初期)

(記事一覧) というわけで、平成が終わったが、14年前の回想録はまだゴールデンウィークも終…

よっしー
5年前
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私はなぜヒゲをそらないのか~JR福知山線脱線事故と「暴言記者問題」

(記事一覧) 前段2005年4月25日、突如起きたJR福知山線脱線事故の発生で、この年のゴールデ…

よっしー
5年前
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2005年の大型連休、知らないところで自分が標的に~JR福知山線脱線事故と私

(記事一覧) 最初の10日間、つまりゴールデンウィークの連休中は、次から次に発表される遺族…

よっしー
5年前
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2005年4月28・29日~入学から3週間で亡くなった大学生

(記事一覧) 兵庫県警から発表される死者の数は10人単位で増え続け、100人が目前だった。時…

よっしー
5年前
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2005年4月26日~一夜明けて遺体安置所

(記事一覧) JR福知山線脱線事故の発生初日、遺体安置所となった尼崎市の体育館に貼り付けられた私。午前2時を回った頃「交代で1時間ずつ仮眠してまた現場」という指令が届いた。 一時間仮眠して、また体育館に戻った。夜が明けて周囲は明るくなり、メディアの数も10分の1ぐらいに減っていたからだろうか、雰囲気も少し落ち着いていた。体育館から出てきた人に恐る恐る話を聞いてみると、「親族の行方が分かりません。とにかく心配です。早く助けだして欲しい」といった話をしてくれる人が少しずつ現れ

2005年4月25日、尼崎~JR福知山線脱線事故と私

(記事一覧) その日の朝はゆっくり始動した。午前9時を過ぎて、そろそろ出勤しようかと思っ…

よっしー
5年前
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有史以前~2005年4月24日までのこと

(記事一覧) 2005年4月24日まで平成が、もうすぐ終わる。ほぼ30年という切りのいい年数に、…

よっしー
5年前
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平成の終わりに~福知山線脱線事故から14年

2019年4月24~25日4月24日の夜、仕事を終え、軽く食事して、東京駅から夜行バスに飛び乗った。…

よっしー
5年前
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