見出し画像

過保護

本当はこの話は10月あたりに書きたかった内容だけれど、バタバタしている間に12月がやってきてしまった。
今年の流行語大賞は「村神様」。地元出身選手がプロスポーツ界で活躍することはとても嬉しいことだ。一方、僕の個人的な年間流行語大賞は「過保護」だった、という話をしてみたいと思う。

過保護ってなんだ?

まずプレーンに。「過保護」と聞いて何を思い浮かべるだろうか。
自分の親が過保護だった人は、窮屈だった子ども時代を思い出したかもしれないし、逆にその対義語である「放任」の家に育った人は、羨ましいと思ったかもしれない。

待てよ。「過保護」の対義語って、「放任」なのだろうか。
そもそも「過保護」ってなんだろう。

僕の愛用する国語辞典、『ベネッセ表現読解国語辞典』で「過保護」を繰ってみた。

子供などを育てるとき、必要以上に大事にして世話をし過ぎている。また、その状態。

なるほど。
まず、「過保護」が成立するための条件は、「何か」「誰か」を育てないといけないらしい。つまり、それは言い換えれば、「育てる側」「育てられる側」の、ある種の主従関係、上下関係を前提にしているように感じる。

そして、「必要以上に大事にして世話を」することが「過保護」らしい。
つまり、「子供など」を「育てる」にあたって、その主従関係の中で、「主」は「従」を一定以上に「大事にして世話を」することは前提なのだ。「大事にして世話を」すること自体は当たり前で、それだけでは「過保護」ではなく「保護」だ。「保護者」という言葉がある。

それが行き過ぎて、「必要以上」と判断されるとき、それは初めて「過保護」となるということだ。
では、一体「誰が」判断するのか。「主」か、「従」か、はたまた第三者(「主」と「従」の側につく第三者でも状況が変わってきそうだ)なのだろうか。

そして、「保護」の、前提とされる「必要」な量とは、具体的にどれくらいなのだろう。どのラインを超えたら「必要以上」となるのだろうか。

さらに、対義語は本当に「放任」だろうか。例えば、「溺愛」「共依存」は対義語にならないだろうか。また、「過保護」と「放任」は両立する可能性は本当にゼロなのだろうか。

……とまあ、こねくり回すことだけは大好きな僕。
こういうことを高校の頃からずっと脳内でやっていて、その一定の答え(=先人の導き出した結論)を哲学に求め、大学でも教育哲学が大好きだった僕。

あなたにとっての「過保護」とは、どんなもの?
自分の親や、身近な友達・恋人の親に対して「過保護」と思うことはあっても、まさかあなた自身が「過保護」と言われたことは、ある?

久々の大喧嘩

このnoteを読んでくれている人たちは割と限られている(はず)なので、今回は特にセンシティブな話題を含むために、誰かが特定されないかたちで書くことはとても困難を極めるけれど、でもやっぱり書いておきたい。この2ヶ月弱で考えたことを、文章にして残しておきたい。

そう、喧嘩をしたのだ。
その友人とは今までに大きな喧嘩をしたことが何回かあるが、その中でも最大のものだった。

「僕は」、友人の言動がずっと「鼻についていた」。それが蓄積して、蓄積しきって我慢の限界を超えた。
大切にしてきたはずの友人関係を解消してもいいと本気で思ったし、それくらい嫌だったのだ。

友人は、ときに空気を読んでいないという言動をとることが少なくない。
良い意味で、遠慮がない。その代わり(?)、誰かからの指摘は、上下関係・年齢に関係なく素直に受け止め、向き合う謙虚さを持ち合わせるとてもいいやつだ。

僕を取り巻く友人関係の変化があり、そこに、悪くいえば「土足で踏み荒らす」ような友人の言動が、とてもじゃないけど許せなかった。

僕は友人に伝えた。

「そんなことを言ったら、あの人はきっとこう思うってどうして配慮できないの」
「僕達は、君の何気ない気持ちに傷ついているんだよ」

言葉の一つひとつを鋭く研ぎ澄まして、送信ボタンを押すたびに言葉が友人の胸に突き刺さっていく音がするようだった。

僕の「怒り」の主語は、「僕」ではなかった。
複数形の、架空の「僕達」だったり、確かめたわけでもない「あの人」だったりするだけで、そこに「僕」はなかった。

別の友人がそんな僕を見て言った。「自分の知らないところで、自分のために本気で怒ってくれている人がいるって知ったとき、自分はどこか嬉しい気持ちになるなあ」。
その言葉を鵜呑みにして、まるで勢いづけてもらったかのように、言葉のナイフは友人に突き刺さっていった。

そんなナイフを全部受け止めたうえで、友人は言った。

「きみちゃんって、過保護だよね」

「過保護だよね」

耳を疑った。僕も例のごとく、教育やしつけの場面でのみ使われる単語と認識していたからだ。
僕の親は過保護だが、その親への恨み節にラベルを貼るために使っていたその単語ラベルが、僕自身に第三者の手によって貼られる日がくるとは。それに、まだ子どもはおろか、結婚もまだなのに、だ。

友人曰く、僕は「過保護」らしい。
僕は、僕の仲の良い友人Aと友人Bが、元々仲が良かったのに、次第にすれ違ったり喧嘩したりして離れていくというシチュエーションを異常に怖がる気質がある。
そうならないように、僕は友人Aと友人Bに取り計らって、何とか関係を維持してもらおうとする。それは、自覚的でもあり、無自覚的でもある。

別の単語で置き換えると「お節介」だ。この「お節介」が、僕の「過保護」を形作っている一部分であるらしい。

友人の考え方はこうだ。
自分が生きていく中で、ウマが合う人、合わない人は必ず出てくるし、その時の自分の成熟度合いによってもまた付き合う人が異なってくる。そんな人間関係を、第三者がどう維持してあげようとしても無駄であり、たとえ離縁したとしても、それにより発生する「機会損失」は、自己責任だというのだ。

一理ある。一理しかない。
反発する2人を無理やりくっつけても、そこで要らぬ軋轢を新たに生むだけで、生産性なんてないに等しい。そんな時間があるなら、新たな世界に踏み出して、別の人間関係を作るために労力を費やすほうがよっぽど生産的なのだ。

わかっちゃいるのだ。わかっちゃ。

でも、友人から言わせれば、わかっちゃいないのだろう。
僕は「過保護」で、お節介焼きで、(ここまで言われてはいないが)自分の周囲の人間関係が崩れないためだけに「優しいフリ」をするエゴイストなのだろう。

恋人がiPhoneや鍵を忘れがちなので、先回りして忘れないようにバッグの上に載せておくのだって、その後に恋人と連絡がとれずに自分が不便したくないだけなのだ。

友人への反撃

ここまで腹を割って話せる友人もなかなか現れないと思うが、ひと通り思っていること、モヤモヤしていることを全部吐き出して、ぶちまけあって、お互いに全く違う価値観で全く違う生き方をしていることを確かめ合った僕らの、数少ない共通項は、「空間を共有して、心を開いて、相手に向き合うことの大切さを知っている」ということだと思う。

僕らは、傷つくことから逃げなかった。
重い腰を上げて、ちゃんと目を見合わせて、同じ場所・時間を共有して、話し合った。
「過保護」という言葉は、巨大な鉄球がみぞおちに落ちてきたように、僕にずっと問いかけてくるが、その鉄球すらも、僕をずっと見てきて、お互いをリスペクトし合っている友人から出てきた言葉だったから、嬉しかった(ドMかな?)。

そんな友人が、ここ最近、また別の友人に対して「鼻につく」ことが多いらしく、モヤモヤした気持ちを持ちかけてきた。

シメシメ。

ここぞとばかりに、僕は友人に言った。

「君だって過保護じゃん笑」

一本とってやった。僕を1ヶ月半も悩ませ続けているその3文字の宿題を突きつけてきたからには、それ相応の報いを受けてもらおうじゃないか。

冗談はさておき。

もう一度、辞書で「過保護」の説明を読んでもらいたい。

子供などを育てるとき、必要以上に大事にして世話をし過ぎている。また、その状態。

それが良いか悪いかの評価は、そこにはないということに気づく。

おっと開き直ったか!?と思ったそこのあなた、その通り。
過保護だって悪いことばかりではない、と「も」言いたいのだ(「も」が大事)。

僕は、きっと「過保護」なエゴイストなのだろう。この辞書的意味からすると、保護対象と、意識的・無意識的に上下関係を結んで(結ばせようとして)いないかと問われれば、僕は完全には否定できない。
友達や恋人に対して、主従関係はあまり適切ではないだろう。
だからこそ、「過保護」な気質のある僕は、その気質に常に自覚的でなくてはならないと思う。そう気づかせてくれた友人には感謝しかない。

そして、その一方で。
そのような立場だからこそ、見えてくるものだってあるのだ。
友人Aと友人Bが、お互いにどこか気に入らないことがあるとき、友人Aの抱えている事情だったり、環境だったり、あるいは過去だったりを、僕は知っているかもしれないけれど、それを友人Bに無断でカミングアウトするのは適切ではないだろうけれど、でも、そんな友人Aの事情を友人Bが何らかの方法で知ることができたら、もしかしたら友人Aと友人Bがめちゃくちゃ仲良くなるかもしれないじゃないか。

その仲良くなった友人Aと友人Bとの3人で遊ぶ将来の「機会」に「投資」する「過保護」だって、いいじゃないか。

僕は「過保護」だと思う。全く否定しないし、この2ヶ月かけてその言葉を受け入れつつあるし、その言葉の本当の意味は今でもわかってないと思うけど、やっぱり「過保護」だと思う。

それを自覚しつつ、「過保護」な僕は声を大にして言いたい。

誰かと争ってもいい。
ちゃんと会って、時間をかけて、お互いを尊重して、コミュニケーションをとってみてほしい。
あなたから見たら、相手は努力が足りないかもしれない。踏ん張っていないかもしれないし、家事をちゃんとしていないかもしれない。

でも、それには、何らかの理由や事情が必ずあるはずだ。
その人のライフヒストリーに関わる話なのか、それとも昨日食べたごはんに当たって体調が悪いからなのかは、会って目を見て話さないと分からない。

簡単に機会損失なんてさせずに、友人Aと友人Bと僕とで、3人で遊ぶ将来を夢見たってバチ当たらないでしょ。

と、まあ、今日は具体的な話がほとんどできずにフワッとした内容となってしまったけれど、僕の備忘録として、はたまた僕を応援してくれてる大切な友人たちへのお節介として、文章を残しておくことにしたい。

そうそう、「ブラボー」は流行語大賞には間に合わなかったけど、日本めちゃくちゃ頑張ってた。すごい!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?