仮想現実がどうこうというが、まず現実について深く考えてみるのはどうだろう?

序論

先に言っておこう。この記事では、VRやメタバースの話は殆どしない。

VR、メタバースがバズワードとなって久しい。それらの議論を曖昧にする要因の一つに、現実・ユニバースの事をあまり深く考えずに、仮想現実・メタバースの話をするから、というのがありそうだ。

この記事は、VRやメタバースを考える人の発想の一助となれるように、私が一つ「現実の捉え方」を"提案"するものである。
まずは後に否定する「仮説」をおいて、その仮説の無意味さ(矛盾、ではない)を示し、私の考える「意味のある現実観」を提案する。

「世界」をドロドロにし、バラバラにし、最後に繋ぎ合わせる豪快な思考探求エッセイを、読み物として楽しんでいただけたら幸いだ。

無意味な単一の世界

仮想現実と対比して、物理現実と言うことがあるように、現実とは、物理的に実在し、説明のつくもの、という"イメージ"がある。
universeという位だから、それは単一の、誰にとっても共通のものなのだろう。ならば、現実とは"客観的"に表現されるもので、個人が勝手に思っているだけの事、とはでは、個人や、個人の集まりによる恣意性(まり、人間がそう言ってるだけの事)を排除していけば……さながら皮を向くように、恣意性を剥きとっていけば、あるがままの世界、現実に辿り着けるだろうか。

これに対する私の答えはNoなのだが、なぜNoであるかを、思考実験を通して語っていくことにする。

まずは、ある状況を考えてみる。目の前には机があり、机の上には日本の10000円札が置いてあるとする。

10000円とは言ったが、その種々の細工と独特な印刷が施された紙に紙幣としての価値がある、そして紙幣とはモノやサービスと交換できるものだ、というのは人間の一部(例えそれが1億人、数十億人だろうとも)が「そういうていで」振る舞っているだけである。
物理的に、という目で見ても、1万円札と呼ぶ物体は実在しても、1万円という価値に物理的な実体はない。
似たような事が、企業・社会・法律や国家などにも言える。所属する国・企業・思想などによって、こういった「社会学的な世界」の在り方は全く変わってくるのだから、冒頭に上げた考え方でいくと、そんなのは物理現実じゃないしユニバースじゃないという事になる。

この時点で、「現実を見ろ」と言うときの現実とは一体何なのか、みたいな疑問が湧き上がってくるのだが、一々言及していては話が進まないのでここは一旦無視する。

では次に、生物はどうだろう。生物学は自然科学の一部なので、物理現実の範疇にありそうである。
しかし、生物の「個」の範囲はどうだろう?ある一体の生物の髪の一本、表皮細胞の一つ、腸内細菌の一匹を、どこまでその個の範囲とするか。あるいは、代謝して置き換わっていく細胞は同一の個か。遺伝子を基準にするなら双子は同一の個か?非常に恣意的な区切りだ。
あるいは多細胞生物の生と死。人間の場合、脳死は人の死か、というのは人によって見方が分かれる。動物の場合も、種によって扱いが異なる。あるいは植物の生と死はどう定義するか。
少なくとも、環境から隔たれた一つ一つの命、という観念は、かなり恣意的なようだ。

更に、物理(古典物理)の世界を見てみる。古典物理は、世界の構成単位が極小の粒子として扱い、それが集まった「物体」の挙動をかなり正確に記述できる。
物理現実という言葉にも入っているだけあって、客観性の極地のような世界だと思われる。
だが、「物体」とはなんだろう。
物理学を勉強すると、物体とは「恣意的に決めた大量の粒子の集合」であると分かる。確かに、様々な物理的作用によって、その一連の粒子はおおよそ「伴って」動くが、その「伴っている度合い」がどこまでを一つの物体とするか、というのもやはり恣意的である。
一連の伴って動く塊を、いくつかの物体の連結と相互作用と見なすこともあるし、物体に伴って動く空気中の分子は物体とは別に扱われる。
このように、物理の世界においても、根本にある「物体」の観念はとても恣意的なのだ。
机という物体がある、紙幣という物体がある。この事すら現実ではない、という事になる。

最後に、量子力学的観点ではどうだろう。量子力学は、世界の最小単位、粒子であり波の挙動を記述できる。流石に現実だろうか。
現実かも知れない、とまでしか言えない。なぜなら、未だに解決していない根本的問題を山程抱えているからだ。量子力学の難しい方程式も理論も、仮説なのだ。証明されているものでさえ、元を辿れば何か無条件に正しいと勝手においている「公理」がある。

かくして、最初に考えた、客観的で唯一の現実とはこのようなものだ。

果てしない量の、粒子であり波が、よくわからない確率的過程で蠢いている。

実は、これでもまだ、恣意的なのだ。もっと他の言い様もある中で、私は選んでこの表現をした。加えて、この言葉を言われて脳内に浮かぶイメージ、それもまた勝手な決めつけであり主観で世界を見ているに過ぎない。極論すると、意味とは恣意的なのだ。

さて、ここまで全てを削ぎ落として、世界とはなんだろう。揺らぎ蠕く原初の泥海?意味なき灰色の脈動?そういった名辞すら辞する真なる白痴?

とまあSAN値チェックの入りそうな言葉を並べてみたが、言いたいことは一つである。冒頭に置いた現実の定義はあまり意味がない、という事だ。

私の生きる世界は儚い薄膜を剥げば無意味なる原初の泥海だ、などと嘆いた所で、VRやメタバースの議論に役立つだろうか?
私が「現実」と感じているものが、だいたい現実であると言えるような、現実の定義をしなければ、「現実」という言葉を骨抜きにするだけだ。

意味あるひとつひとつの世界

さて、いい加減私の現実観を語ろう。
まず先程述べた原始の泥、これは確かに全ての人に共通している。これを基底現実と呼ぶ事にしよう。先程は一枚一枚「恣意的な認識」を剥いていって基底現実に辿り着いたが、逆にそういった「恣意的な認識」を重ねたものこそが、現実である、と定義する。
つまり、現実とは認識のレイヤーを重ね合わせたものである。
名前がないのも不便だし、とりあえずこの考え方を多層認識現実観と名付けることにする。もっと格好いい名前があったらいつの間にか変わっているかもしれないが。

"今の私にとって"現実とは、基底現実という意味のないソレに、物理学的レイヤー、化学的レイヤー、生物学的レイヤー、社会学的レイヤー、そして個人的経験レイヤーなどと言った恣意的な認識を積み重ねたものを指すのだ。この現実の元で、組み木の上の紙切れには日本円一万円分の価値がある。
勿論、これは自然科学をベースにモノを考える人の現実であり、例えば宗教的真実に生きる人にはまた違う現実レイヤーのセットがあるだろう。
どころか、同じように自然科学をベースにモノを考える人であっても、内容の異なるレイヤーの組み合わせを現実としている。
ともかく、現実における「物理的な存在」の特別さ、単一であること、といった観念は、残念ながら一旦捨てざるをえない。

哲学を少しかじっている人なら、これはカント主義の浅はかな語り直しに過ぎないと気付くかもしれない。その通りで、この理論は私なりのカント解釈なのだ。

さて、これだけだと、人々が共有しているのは無意味なる基底現実だけ、客観性は存在しない、という結論になってしまいかねない。
それは妙だ。なぜなら、私は日々の中で時折客観的に考える、人の立場になって考えるという事が必要になり、それを行っておおよそ悪くない風に回っている、という経験があるからだ。

意味に満ちた繋がった世界

そこで、客観性をこのように定義してみてはどうだろう。ある領域に属する多くの人が、同様の認識を持ちえると、思われる認識群を客観的な認識レイヤーと呼ぶ。
非常に恣意的で曖昧な定義だが、実際の所、客観的な○○と言ったときにそれにどこまでの性質を求めるか、どこまでの厳密さを意味させるか、は人によって・状況によって異なるだろう。つまるところ客観的であるとは、状況ごとに十分に客観的だと主観が思えることなのだ。データやそのデータの収集方法は、客観的だと「思えるかどうか」を左右するという意味で大事なのだ。

もう少し厳密さを求めた「客観性」の一種も存在する。それが「科学的客観性」だ。
科学とは、再現性と反証可能性を備えた理論体系の事を指す。
これを私の現実論に当てはめるなら、「一定の条件(実験器具にアクセスできる、など)を揃えた人ならば、経験によって得られる」かつ「十分な量の経験との矛盾によって変更され得る」認識レイヤーの事を、科学的客観性を持つ認識と呼ぶことになる。
つまり科学は、客観性に必要な「同様の認識を持ちえる」という事を、再現性によって担保する手法といえる。

さておきこの、「複数の人が同じような認識レイヤーを持つ」ということを認識の共有と呼ぶことにしよう。全く同じである必要はなくて、同じような認識、でよい。認識の共有こそが、一度バラバラにした個人個人の世界を、また結び合わせる糸となる。

ちなみに、「他人からの目線」や「人の気持ちになって考える」なんてのはもっと単純な話だ。
全くもって情報のない相手の気持ちなど考えようもない。人の気持ちになって考えるとは、"自分の中にある"相手のイメージを通してモノを考える事だし、他人からの目線とは"自分の内にいる"他人が自分に向ける目線である。
相手はこのように考える人である、他人は私を見てこう思う、という"自分の中の"認識レイヤーこそが人の気持ちであり、他人の目線である。認識レイヤーのセットこそが現実という立場からすれば、それは個々が生きる現実の一部なのだが、「バイアスとして自覚する」「考え直す」といった事が可能だと言える。
この事を心がけておくと、人の気持ちを分かっていると思い込む傲慢に陥ったり、他人がどう思うかを決め付けて自分がしたいことが出来なくなったり、というありがちな問題を乗り越えられるかも知れないと、私は思っている。

閑話休題

認識は(学習も含めた)経験から得るので、殆どの認識の共有は経験の共有に由来する。逆に、経験の共有が必ずしも認識の共有になるとは限らない。同じような経験から、かなり異なった認識を得る事はよくあるからだ。それでも、例えばαに近しい経験からは、Aに近しい認識か、Bに近しい認識のどちらかを得ることが多い、という風にして経験の共有が認識の共有を生むわけだ。
科学的知識も、科学という手法への個々の信頼を前提に、実際に再現による経験を経ずとも、学習という経験を通して認識の共有を得る。

こうして、多数の個人の、多数の認識レイヤーの間に、認識の共有による糸が繋がって、ネットワークが出来上がっていく。一つ一つは違う世界、違う現実でありながら、経験の共有が生み出した認識レイヤーの類似が人々を繋げたその全体像は、単一のネットワークだと言えよう。
これを、ユニバースと呼んでみるのも洒落ているのではないだろうか?

長い!それぞれ3行で!

・序章
VRだメタバースだ言う前に、少し現実について掘り下げてみない?
・意味なき単一の世界
世界は一つで物理的で人の勝手な認識によらない、という現実観は、突き詰めると無意味だ
・意味あるひとつひとつの世界
勝手な認識こそが世界に意味を与えるのだから、その個々の認識を重ね合わせたものを現実と呼べばいい。
・意味に満ちた繋がった世界
経験の共有が同じような認識の層を作り、個々の現実は認識の共有のもと繋がって、一つの大きなネットワークになっていく。

おわりに−VR議論への布石

そろそろ文を締める前に、VRの議論に繋がる話で、一つ忘れていたものがあるのでそれを語っておく。
先程から、一人一人がそれぞれの認識に基づくそれぞれの現実を生きている、と話したが、認識レイヤーのセットを現実とするのなら、一人の人間もまた一つの現実のみを生きる訳ではない。
私は今、現実とは何かを深く考えているから自然科学に思いを馳せているが、普段からそうという訳ではない。社会的現実も、友達のコミュニティ、仕事先のコミュニティ、ネット上のコミュニティ、それぞれ異なるルールと世界観を持っている。仕事先で一緒に同じ仕事をしている人たちとは、多分その間は認識の共有をして繋がった現実を生きているが、仕事の外で彼らがどんな世界を生きているかを私は全く知らない。また仮に今の仕事を辞めて新しい仕事をすれば、「仕事」という大枠は同じでも全く違う世界になるだろう。更に、小説やマンガにのめり込んでいるとき、私の認識はその物語の土壌に立っている。これは分かりやすく、多様な世界に生きている時間だ。
こんなのは、誰にでも当てはまるような話だと思う。殆どの人は、いくつもの現実にまたがって生きている。別にVRなどなくてもそうなのだ。

ではVRとは何なのか。技術としてのVRは、何故体験として仮想現実なのか。正直な所、まだ私はそれをうまく言語化出来ていない。だが、深々と「現実」とは何かを掘り下げていき、一つ強固な視点を持つことで、「仮想現実」とは何なのか?といったテーマはより魅力的になると思う。
お互いが現実への視点をはっきり持ち、それが異なっていてもいいから、その前提を伝えあって頭で理解する。その上で仮想現実の議論をすれば、より実のある議論となるだろう。

といった所で、文章を締めようと思う。長文におつきあいいただき、とても感謝している。

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