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『風が吹く時』はいま観るべき映画か?

東京は、"STAY HOMEウィーク"中のため、ほぼ外に出なくなりました。


"こんなときに観たい映画特集"みたいなのを、SNSとかで見かけるとたまにチェックしていますが、結局、最初から最後までただ笑って観ていられる映画ってないから、元気じゃない時に映画を観るのは得策じゃないなとか思ってます。。
元も子もないですね。すみません。


それなのに、よりによってこんな時に、観るべきだろうと思って『風が吹くとき』(1986)を観ました。

観ましたというか、観てしまいました。。


大学生の時以来なので、20年近くぶりに観ました。
大学生のときも、観たいから観たわけじゃなくて、観るべきだろうと思って観た記憶があります。
9.11の後、世界情勢が急激に変わり始めた頃でした。


恋愛ものや家族もので心理的にハードな映画は耐えられるけど、テーマが戦争だったり、救いがたい状況のハードな映画は、受けるダメージを想像するだけで敬遠してしまって、
『プラトーン』も未だに観ていないタイプなんですが、
それでも、そのとき"観るべき"だと思った自分の覚悟はある程度理解できます。


大学生の頃は、右も左もなく、、というより政治や世界情勢を見極めるられるほどの知識も見識もなく、ただただ"反戦"という視点しかありませんでした。
(当時から、素直でおバカな大学生を自負していました)
なのでこの映画も、
ラジオとたまに図書館で仕入れてくる新聞などの情報しか持たない、(ちょっとおバカな)"善良な市民"である老夫婦に起こる悲劇としか見ていなかったと思います。


それが、今日『風が吹くとき』を観てやっと分かったのは、
この夫婦をただの"善良な市民"としては見ていられないということです。

特に、新聞はゴシップしか読まず、連載の小説を楽しみにしているだけのヒルダが、戦争のニュースもほぼ知らず、夫のジムが仕入れた情報のみに頼っているところは、祖母の姿と重なります。祖母も全くといっていいほど政治や世界情勢には疎い人でした。

映画の中で、"先の戦争(第二次世界大戦)では。。"という会話が多く、その内容は戦争の悲惨さよりも"古き良き時代"として懐かしく回想しているようなところが、祖母のノスタルジー感覚な戦中戦後の話を思い出させました。

大阪から田舎に疎開してきて、さほど食べるものにも困らず、戦争の悲惨さから免れた祖母は、歳の離れた兄が戦死したことすら、自分史のなかのちょっとした悲劇としかみていなかったのかも知れません。
(もしかすると、子どもだった孫に話すために、敢えてそういう話にしていたのかも知れませんが)

当時(1980年代)、ヒルダと同世代だった祖母の姿が重なるということは、世界的にそういう人は多かったのかも知れないと思ってしまいます。

どんな状況でも、カーテンやクッション、家の掃除しか心配しないヒルダと、
家族を守るのは家長の役目だと、家庭内核シェルターを息子にも作るように勧めるジムの姿に、古い家父長制度とかジェンダーロールという言葉が頭をよぎってモヤっとしましたが、
知識が無いのでここではひとまず置いておきます。


また、国に100%の信頼をおいているジムも、決して肯定的には見られませんでした。

政府推奨のパンフレットをもとに、家庭内核シェルターを作ったり、
被爆後は、国の救援隊を待ち続けていたり、国の補償で家を直せるとヒルダに言い聞かせたり、年金の話をしている彼は、ブラックジョークとして描かれていることを、やっと理解しました。
(しかもこのパンフレットは、実際にイギリス政府が刊行した手引書「防護と生存」の内容を踏まえていると知り、鳥肌が立ちました。)

彼のように盲信的な市民は確かに、かつて私が思った"善良な市民"という表現でもしかすると正しいかも知れませんが、それには、"国・政府にとっての"という前置きが付きます。


家庭内核シェルターを作るために、ジムが分度器を買いに行ったら売り切れていたというエピソードや、
パンフレットに書かれている通り、じゃがいもの紙袋に入ったりしている姿はバカバカしいほど滑稽ですが、
いまの状況も決して大差が無いことに絶望感を抱いてしまいます。


戦後40年の冷戦時の風刺が、戦後70年以上経った現在にも通じるなんて、あまりにも皮肉だと思います。

ただ、この時代と大きく違うのは情報の入手方法かも知れません。
いまや、ニュースはテレビ・ラジオ・新聞だけではなく、ネットを通じてSNSなどのツールからリアルタイムで世界中の人の声を聞くことができます。

例えメディアがが大本営発表のような役割を担いはじめていようとも、今はSNSなどを通じて正しい情報もどこからかは入手できるはずです。
(と、信じたいというべきか。。)

それでも、人は信じたいものを信じるし、聞きたいことを聞こうとするので、
国を盲信的に信じているジムのような人も一定数は必ず存在するし、
ヒルダのように、無関心を貫いて楽しいことや興味のあることにしか目を向けない人もいます。
更には、正確な情報とそうでない情報が混在する問題も、未だに解決されていません。

映画のなかでも、
老夫婦の2人に、核爆弾や放射能に対する知識が無い姿が痛々しく感じますが、正しい知識が有ればどうなっていたのかというと、そこにも救いは無く、むしろ知らないからこその希望を持っているだけ彼らは救われているのかも知れないとすら思ってしまいます。

では、そんな中でどうすべきなのか。
個人の信念としては、
情報は偏らずに仕入れようと常に思っているし、
白洲次郎のように、自分は常に怒っていたいと思っています。
というより、怒るべきだと思っています。

現状には、必ず不満を持つことがより良い未来をつくる事につながると信じて。
次の為政者には誰を選ぶべきか、それを見極めて、各々が果たすべき責任を果たすこと。
それが民主主義の国に生まれた自分に課せられている最低限の義務だと思うからです。

お国からの
マスクを待ち、補償を期待して待っているだけでは、
ジムとヒルダのような未来しか待っていないのだということを学ばなければいけないのです。

こういった非常事態が起こると必ず、
ジムとヒルダのように、
3.11のときや、リーマンショックのとき、
そして先の戦争のときと比較したり、
同じように例えたりしがちですが、
どんなときでも、
いま起こっている現実をそのままに受け止めて、最善の策を考えて主体的に行動する以外の方法はなく、
そうでなければ、経験から学ぶことなく
戦後100年経っても、
"あのときは手づくりのマスクをみんなで作ったりした"
"家に閉じ籠るしかないから、クッキーを焼いて食べたりしてた"
と、この老夫婦のように懐かしく語る人ばかりの、進歩がない未来が待っていそうで怖いです。


ということで、結論として、
タイトルの
『風が吹くとき』はいま観るべき映画か?という問いに対しての自分の見解は、

《YES》

でした。
特に、負のスパイラルに慣れすぎて、深刻な状況を直視できなくなっている自分のような人にとっては、首を10万回くらい縦に振れるくらいに観るべき映画だと思います。

とはいえ、なかなかのパンチを喰らう可能性が高いので、心身に余力がある時に観ることをお勧めします。


ちなみに、同居人がこのタイミングで観ることを選んだ映画が
『マッドマックス 怒りのデスロード』で、
"マジか。。"と思ったものの、意外とそういう人が多かったので、
アフターコロナがどんな世界になっていようとも、トカゲを食べて、砂漠を行ったり来たり爆速しながら生きていけるタフな人がこの国には多いのだと信じようと思っています。。