#66 ユダの手紙

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レジュメ

※「※」や「⇒」で書いてる記述は、このNoteを書いてる者のメモです。他はレジュメのコピペです。

※不思議な手紙。普段読まない。短い。25節あるだけ。聖書で2ページ。短いけど深い。紀元1世紀の教会の状況について書いているが、内容は現代的。ユダヤ的だが、普遍的手紙。

1.はじめに

(1)著者と宛先
①「イエス・キリストのしもべ、ヤコブの兄弟ユダ」と自己紹介をしている。
②ユダが誰であるかについては伝統的に2つの考え方がある。
*主イエスの弟のユダ(多数説、通説)
*12使徒の中のイスカリオテのユダでない方のユダ(別名タダイ)
③この手紙は極めてユダヤ的なものである。
*比喩的表現がたくさん出て来る。
*似たような言葉が3つ並ぶ。(対句法)
*旧約聖書への言及が多い。
④2ペテの内容との重複があるので、2ペテと同じ宛先だと判断される。
*彼らは、小アジアの各地に離散した信者たちである。
⑤2ペテは、64年~68年(殉教の死の年)の間に書かれたと思われる。
⑥ユダの手紙は、それ以降に執筆された。
⑦当時、グノーシス主義という異端が教会内に広がりつつあった。

(2)執筆目的
①この手紙が書かれた目的は、偽教師に対する注意を喚起すること。
②さらに、読者に自分たちが何者であるかを認識させること。
③パウロは、エペソの長老たちに警告していた(使20:29~30、1テモ4:1)。
④ペテロも、「偽教師が現われます」(2ペテ2:1)と預言していた。

2.アウトライン

(1)あいさつ(1~2節)
(2)偽教師の出現(3~16節)
(3)信者の責務(17~23節)
(4)頌栄(24~25節)(しょうえい)

ユダの手紙から教訓を学ぶ。

Ⅰ.あいさつ(1~2節)

1.1~2節
Jud 1:1
イエス・キリストのしもべ、ヤコブの兄弟ユダから、父なる神にあって愛され、イエス・キリストによって守られている、召された方々へ。
Jud 1:2 あわれみと平安と愛が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。

(1)ユダは、信者の立場を3つの角度から描写している。
①愛されている。私たちは父なる神から愛されているお互いである。
②召されている。私たちをこの世から召し出すのは、聖霊なる神の働きである。
③守られている。私たちはキリストにあって、キリストのために守られている。

Ⅱ.偽教師の出現(3~16節)

1.3~4節
Jud 1:3
愛する者たち。私たちがともにあずかっている救いについて、私はあなたがたに手紙を書こうと心から願っていましたが、 聖徒たちにひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。
Jud 1:4
それは、ある者たちが忍び込んできたからです。彼らは不敬虔な者たちで、私たちの神の恵みを放縦に変え、唯一の支配者であり私たちの主であるイエス・キリストを否定しているので、以下のようなさばきにあうと昔から記されています。

(1)ユダは、最初は救いに関する喜びの手紙を書こうとしていた。
①しかし、その前に別のテーマで手紙を書く必要に迫られた。
②「聖徒たちにひとたび伝えられた信仰のために戦う」ということである。
※ひとたび:一度限り伝えられて変更が許されない教え。
③「使徒たちの教え」から逸脱する者は、偽教師である。
*旧約のメシア預言は、イエスにあって成就した(ヘブ1:1~2)。
*キリストは、罪人を救うために人となり、十字架上で呪いの死を遂
げ、墓に葬られ、3日目に甦られた(1コリ15:3~8)。

※これが一度限り教えられた教え。

(2)偽教師の出現
①「それは、ある者たちが忍び込んできたからです」

*裏口からこっそりと入ってくるようなものである。
②ユダは彼らの特徴を3つ上げている。
*不敬虔な者たち。神の恵みを放縦な生活の口実に変える者たち
*イエス・キリストが神であり救い主であることを否定する人たち
*さばきにあうと昔から記されている人たち

2.5~7節
Jud 1:5
あなたがたはすべてのことをよく知っていますが、思い起こしてほしいのです。イエス(キュリオス:主)は民をエジプトの地から救い出しましたが、その後、信じなかった者たちを滅ぼされました。
Jud 1:6
またイエスは、自分の領分を守らずに自分のいるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の鎖につないで暗闇の下に閉じ込められました。
Jud 1:7
その御使いたちと同じように、ソドムやゴモラ、および周辺の町々も、淫行にふけって不自然な肉欲を追い求めたため、永遠の火の刑罰を受けて見せしめにされています。

(1)ユダは、旧約聖書の事例を3つ挙げている。
①荒野でのさばき
*イスラエルの民は、荒野で一部の例外を除いて全員滅ぼされた。
*不信仰のゆえである(1コリ10:1~11、民14:26~38)。
②堕天使たちのさばき
*堕天使たちが、人間の姿を取って人の娘たちと結婚した(創6章)。
*創3:15に約束された「女の子孫」の到来を妨害するためである。
※人の内にある神の形をゆがめるため。
*堕天使たちは、今は暗闇の中に閉じ込められている。
③ソドムとゴモラのさばき
*不自然な肉欲のために硫黄の火によって滅ぼされた(創19:1~28)。
*「不自然な肉欲」とは、同性愛のことである。

3.8~10節
Jud 1:8
それにもかかわらず、この人たちは同じように夢想にふけって、肉体を汚し、権威を認めず、栄光ある者たちをののしっています。
Jud 1:9
御使いのかしらミカエルは、モーセのからだについて悪魔と論じて言い争ったとき、ののしってさばきを宣言することはあえてせず、むしろ「主がおまえをとがめてくださるように」と言いました。
Jud 1:10
しかし、この人たちは自分が知りもしないことを悪く言い、わきまえのない動物のように、本能で知るような事柄によって滅びるのです。

(1)ユダは、偽教師たちの5つの行為を上げている。
①彼らは、肉体を汚している。
*預言的な夢を、性的放縦を許すための口実に用いる。
②彼らは、権威を軽んじている。
*使徒たちや長老たちの権威を拒み、それに反抗する。
③彼らは、栄光ある者たちをののしっている。
*御使いをののしることは、神を汚すことである。
*ユダは、旧約偽典「モーセの昇天」の内容を引用している。
*天使ミカエルは、悪魔をののしらなかった。
*ユダは、(偽典であることは分かっていつつも)引用した箇所は正確に書かれていることを認めている。
④彼らは、自分には理解もできないことを悪く言っている。
*御霊を持っていないので、霊的真理を理解することができない。
⑤彼らは、動物のように本能だけで判断し、行動している。

4.11節
Jud 1:11 わざわいだ。彼ら(偽教師ら)はカインの道を行き、利益のためにバラムの迷いに陥り、コラのように背いて滅びます。

(1)ユダは、旧約聖書の失敗者3人を例に出している。
①「カインの道を行き」とは、神に反抗する道を歩んでいるということである。
*カインは、弟のアベルを殺して最初の殺人者となった。
②「バラムの迷いに陥り」とは、利益のために仕えるということである。
*彼は、神の御心に背いてイスラエルの民を呪おうとした(民22~24章)。
③「コラのように背いて」とは、願いを達成するために権威に反抗すること。
*モーセとアロンに反抗し、家族とともに割れ目に落ちた(民16章)。

5.12~13節
Jud 1:12
この人たちは、あなたがたの愛餐のしみです。恐れる心もなく一緒に食事をしますが、自分を養っているだけです。彼らは、風に吹き流される雨無し雲、枯れに枯れて根こそぎにされた、実りなき秋の木、
Jud 1:13 自分の恥を泡立たせる海の荒波、真っ暗な闇が永遠に用意されている、さまよえる星です。

(1)ユダは、6つの象徴的表現によって偽教師の本質をあばき出している。
①愛餐のしみ
*「しみ」は隠れた小石である。「暗礁(かくれいわ)」(文語訳)
*知らないで食事をしていると、その小石によって歯がかけてしまう。
②偽の牧者
*彼らは羊を飼うことを忘れ、自分だけを養っている。
③水のない雲
*それは風が吹いてくると、消えてなくなる。
④根こそぎにされた秋の木
*春の収穫期にも、秋の収穫期にも実を結ぶことがない木
⑤自分の恥を泡立たせる海の荒波
*偽教師は落ち着きがなく、常に騒がしくしている。
⑥さまよえる星
*偽教師たちは、堕落した天使の道を歩んでいる。

6.14~15節
Jud 1:14 アダムから七代目のエノクも、彼らについてこう預言しました。「見よ、主は何万もの聖徒を引き連れて来られる。
Jud 1:15
すべての者にさばきを行い、不敬虔に生きる者たちのすべての不敬虔な行いと、不敬虔な罪人たちが主に逆らって語ったすべての暴言について、皆を罪に定めるためである。」

(1)ユダは、旧約偽典の『エノク書』から引用している。
※エノク書が神の言葉だと言っているのではない。
①エノクの預言が記されているその箇所だけは正しいと認めた。
②エノクの預言の内容は、メシアの再臨に関するものである。
③偽教師は、キリスト再臨の時に罪に定められる。

7.16節
Jud 1:16
彼らは、ぶつぶつ不満を並べる者たちで、自らの欲望のままに生きています。その口は大げさなことを語り、利益のために人にへつらいます。

(1)さらにユダは、偽教師の実態を3つ描写している。
①彼らは、荒野の民のように、つぶやき、不平を鳴らす者たちである。
②彼らは、自分の欲望を神として歩んでいる者たちである。
③彼らは、大きなことを言ったり、へつらったりしながら、自分の益になることだけを考えて生きている者たちである。

Ⅲ.信者の責務(17~23節)

1.17~19節
Jud 1:17 愛する者たち。あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの使徒たちが前もって語ったことばを思い起こしなさい。
Jud 1:18 彼らはあなたがたにこう言いました。「終わりの時には、嘲る(あざける)者たちが現れて、自分の不敬虔な欲望のままにふるまう。」
Jud 1:19 この人たちは、分裂を引き起こす、生まれつきのままの人間で、御霊を持っていません。

(1)思い起こす
①偽教師や嘲る者たちの出現は、あらかじめ警告されていたことである。
②2ペテ2章は偽教師を扱い、3章はあざける者どもを扱っている。
*あざける者どもとは、自分の欲望に従って生きる者たちである。
*彼らは、キリストの再臨の教理をあざけった。
③パウロも同じような警告を発している(使20:29、2テモ3:1~5)。

(2)ユダは彼らの性質を3つ上げている。
①彼らは、キリストの教会の中に分裂を起こす。
②彼らは生まれつきのままの人間である。
③彼らは、御霊を持っていない。
※born again(新生)してない。

(3)偽教師やあざける者と戦うための武器は「啓示されたみことば」。
①つまり、旧約聖書と新約聖書である。
②それを常に思い出す必要がある。

2.20~21節
Jud 1:20
しかし、愛する者たち。あなたがたは自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって祈りなさい。
Jud 1:21 神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに導く、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。

(1)「最も聖なる信仰」とは、使徒たちの教えを信じる信仰である。
①その信仰の上に、霊的成長を目指して自分自身を築き上げる。
②使徒たちの教えは、新約聖書の中に記録されている。

(2)三位一体の神との関係
①聖霊によって祈る。
*聖霊の働きは、私たちに聖書を理解させることである。
※内面的理解。
②神の愛のうちに自分自身を保つ。
*父なる神の愛の内に留まるように、常に注意を払う。
③主イエス・キリストのあわれみを待ち望む。
*地上に患難時代が来る直前に、教会は空中に引き上げられる。
*携挙は、主イエス・キリストのあわれみによって起こることである。
※携挙を待ち望む、ということ。

3.22~23節
Jud 1:22 ある人々が疑いを抱くなら、その人たちをあわれみなさい。
Jud 1:23
ほかの人たちは、火の中からつかみ出して救いなさい。また、ほかの人たちは、肉によって汚された下着さえ忌み嫌い、神を恐れつつあわれみなさい。

(1)3種類の兄弟たちへの奉仕
①疑いを抱いている人々
*正当な疑問を抱き、真実に答えを求めている人々
*正しい教理を教え、信仰の成長に役立つような助言をすべきである。
②偽教師の影響を受け、誤った道に進みつつある人々
*「火の中からつかみ出して救いなさい」
*ここでの「救い」とは、誤った教理からの救いである。
③2番目よりも程度が進んだ人々
*偽教師の影響を受けて、自ら異端的な教えを言い広めている。
*自分自身も、彼らの影響を受ける可能性がある。
*キリストによって着せられた義の衣に汚れが付く恐れがある。
*「肉によって汚された下着さえ忌み嫌い」とは、比ゆ的言葉である。
*なんでもない会話(下着)さえも、注意する必要がある。

Ⅳ.頌栄(24~25節)

1.24~25節
Jud 1:24
あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びとともに栄光の御前に立たせることができる方、
Jud 1:25
私たちの救い主である唯一の神に、私たちの主イエス・キリストを通して、栄光、威厳、支配、権威が、永遠の昔も今も、世々限りなくありますように。アーメン。

(1)ユダは、神に可能な2つのことを上げている。
①神は、私たちがつまずかないように守ることのできるお方である。
*「守る」というのは軍隊用語である。
②神は、私たちを栄光の御前に立たせてくださるお方である。
*私たちは、完璧な姿で主の栄光の前に立つようになる。

(2)ユダは、神の8つの性質を上げている。
①神は唯一のお方である。
*これは、多神教への回答である。
②この方は、唯一の救い主である。
*偽教師たちは、キリストの神性もメシア性も否定していた。
③救いはキリストを通して与えられる。
④神は栄光に富んだお方である。
⑤神は尊厳に満ちたお方である。
⑥神は支配する力を持ったお方である。
*神の許しがなければ何一つ起こることはない。
⑦神は権威を持ったお方である。
*ご自信の計画を、必ず成就することができる。
⑧神は永遠に存在しているお方である。

(3)私たちが信じる神は、かくも偉大なお方である。

感想

ユダの手紙は偽教師に気を付けろ!って話でした。旧約のベースはありつつも、新約で増えた部分の理解が異なる人たちってことだと思うんですけど、紀元1世紀より後の時代でも異端として排斥するたびに、分派しまくって、偽教師だらけになってる印象。

東方教会が分離した時は、西方と東方で互いに偽とみなしていただろうし、プロテスタントが始まった当初は、カトリック vs プロテスタントで互いに偽だったろうし。。

宗教一般について言えば、そもそもが、偽ができにくいような仕組みが聖典に組み込まれてないといけないんだと思います。聖書の中では、ユダの手紙もそのような機能を果てしてはいるのでしょうけど、それがあっても、バラバラに分裂しちゃってるのが現実なわけですから、完全性という意味では弱かったのかな。。

あと、『モーセの昇天』と『エノク書』っていう旧約偽典に言及があるのが、ちょっと面白いですね。中川さん曰く、ユダはこれらを神の言葉だとみなしていたわけではなく、偽典ですら、一部正しい理解をしているって言ってました。つまり、そこは常識で誰でも知ってる部分ってことなのかな。

とは言え、当時の時点で、偽典だという理解があったのかな?とは私は疑問に思いました。まぁ、でも、聖書が偽典を神の言葉だと勘違いして取り扱ってるとしたら、聖書そのものの立ち位置が危うくなるので、そう言わざるをえないんだろうとは思いますけどね。

一応、有料版のChatGPT4にも聞いておきました。

その当時は、正典、偽典とはカッチリ決まってなかったようですね。決まったのは4世紀とかだそうです。

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