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ジェンダーレス

昨今、世界はどんどん複雑化している。今まで当たり前とされていた基本的概念が、当たり前ではなくなってきている。この価値観の変化は、今まであった問題を解決するという側面と、新たな問題を生み出すという側面の両方を孕んでいる。

その代表的なものが「性差」ではないかと思う。

今までは、男性、女性という概念があって、その概念を基準にどちらかに振り分けられていて、そうである事がスタンダードだった。もちろん、そのスタンダードに当てはまらない人たちも一定数は必ずいる。しかしそういう人たちも暗黙のうちにその中に馴染まざる得なかった。

しかし昨今、男性、女性という概念に当てはまらない人たちの人権や尊厳を尊重する動きが高まっている。もちろんそれは素晴らしい事であるし、当然といえば当然な事であるのだけれど、その事によって今までより、更に複雑な感覚や感性を理解する事が要求される世界になり、その部分の複雑化についていけない人たちがいるという現実も押し寄せている。また、これからの人たちは「性」について、より高度な思考が求められるのだろうとも思う。

一昔前は、男、女という概念があって、それは身体的特徴で決められていて、物心ついた時には、「あなたは男」「あなたは女」と振り分けられていたし、そう教育もされて、何の疑いもなく、自身の性認識はそうであると思う人が大多数であったと思う。もちろんそれに違和感を感じる人たちもいるが、それは少数であったと思う。

しかしこれからは、男、女という概念がなくなる。その意味は身体的特徴において、仕分けしないという事。「あなたは男」「あなたは女」という振り分けが他者によってなされないという事。よって、自分自身でその仕分けをせざる得ない。つまり、性認識の思考としては、「自分はどちらなのか?」をまず考えなければならないという事になると思う。それは「性」を自由に選択できるという可能性を孕んでいるという事になると思う。これにより性認識に関する感覚はどんどん複雑化する可能性が高いし、その感覚の全てに対応するような物理的対処は恐らく不可能だと思う。

確かに、身体的特徴による性判別と自分の性認識が一致しない人たちは暮らしやすくなるのかもしれない。しかし、それらが一致している人たちには今より複雑で暮らし難くなる可能性は少なからず否めない。

少数派の意見を聴き、それを実現する為の努力をすることは必要な事であると思う。しかし現実問題として、万人が満足する物理的対応は皆無であると思う。であるなら、どちらをベースに置くのか、多数派をベースに置くのか、少数派をベースに置くのか。

世界のバランスを崩してまでやるべき事なのかはもっと慎重に精査されるべきであると思う。

これは物理的対応に関する事であって、全ての人の人権や尊厳は守られるべきものであり、それは物理的対応に全て帰依するものではないという事である。

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