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傾聴とおたすけ

最近、よく傾聴という言葉を耳にするし、傾聴についての会話も耳にする場面が間々ある。

そういう話しを聞いていて何故か違和感を感じる。おそらく天理教的救済観との剥離を少なからず感じるからだろう。

僕が思うに、悩みには二種類あると思う。本当に悩んでいる場合と、何らかの理由で悩みを創っている場合。

前者の場合は、その悩み自体を解決したいはずだから、必要なのは問題を解決する方法だと思う。であるなら、この場合、傾聴はあまり意味がないという事になると思う。

後者の場合は、悩み自体を解決したいわけではないと思う。何故なら、悩みを持つことを自ら選択しているから。この場合、必要なのはその悩みそのものなので、解決しようとすると逆に距離を置かれる。

今、この傾聴という言葉をよく耳にするようになったのはおそらく、「悩みではない悩みを持つ人」の割合が多くなってきているからだと思う。

特に現代日本はとても恵まれた国だ。住む場所があって、着る服もある。食べる物にも不自由はなくて、お金もそれなりに持っている。人生もそれなりに楽しく充実している。おそらくこういう人が大半を占めていると思われる。

にも関わらず、人は誰しも一つくらい悩みを抱えていたりする。平凡であるが故に起こる悩み。自己の肯定感の欠如。それなりの人生をそれなりに楽しめばいいのに、何故か大半の人はこれができない。結果、自分という存在の意義を探しはじめ、見つからないその答えを埋める為に、悩みを創り出す。

何とも滑稽な話しではある。ただ、滑稽と笑って済ましてもいられない。何故ならその自分が創り出した悩みに蝕まれ、自分自身を駄目にしてしまうケースも往々にして起こるのだから。

この場合、当事者は悩んでいる自分に存在意義を見出しているのだと思う。故にこの場合は、悩みを解決してはいけない。その悩みが無くても自分には存在意義があるという思考になる必要があって、それは自分自身でそうなるしかない。問題はその悩みではなく、その悩みを創り出す思考で、それに気づかせる為のアプローチとしては傾聴はおそらく有意義な方法なんだと思う。

天理教的救済観において、その導入に傾聴は必要であると思うのだけれど、「傾聴=おたすけ」とはたぶんならない。天理教的救済観はその先にあると思うし、そこに到達してはじめておたすけと呼べる領域になると思うから。

よって「悩みではない悩み」を天理教的救済観で解決する事はおそらく不可能だと思う。
正確に言うと、おたすけの領域に行く前に問題が解決してしまうので、教えの出番がないと言った方がいいのかもしれない。

しかし、そういう人たちが増えているというのはある意味、教え(宗教)が必要な時代になっているとも言えると思う。存在意義やそれを紐解く鍵が教え(宗教)の中にはあるから。

ただその為のアプローチはおそらく傾聴ではないと僕は思う。何故なら傾聴は宗教でなくても成立するから。

宗教でなくても成立するアプローチを何故するのか?それはおそらく宗教でないと成立しないアプローチをできる人が単純に減っているからだと思う。

もしそうであるなら、宗教家がそこに向き合わなければならない時が来ているのかもしれない。

最後にこれはおたすけの現場においての傾聴を否定しているものではない。

おわり

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