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世界美化の実践 資生堂「現代詩花椿賞」の周辺

株式会社資生堂は、創業142年、国内シェア1位、世界シェア5位の化粧品製造販売会社である。「美の力でよりよい世界を」を使命とする同社は、資本主義世界において商品販売を介して美を創造する企業であり、後述する今道友信が提唱した実践美学に照らせば、戦争と殺戮に塗れた地獄のごとき時代にあって、世界美化に献身する企業といってよい。
 
同社には37年創刊の月刊広報誌『花椿』がある。戦時色が強まる40年に休刊するが、敗戦後、連合国軍占領下の50年に復刊した。66年から11年まで仲條正義がアートディレクターを務め、山田勝己編集長時代の60年代後半には655万部が発行され、全国の販売店で無料配布された(『「花椿」ト仲條』)。栗原弘二郎、水野卓史編集長時代の75年でも300万部を発行していた(水野『資生堂宣伝部日記』)。わずか42頁の冊子だが、美しい誌面と充実した内容から文化誌といってよかった。主婦や未婚女性を通じて家庭に持ち込まれたこの美しい冊子を手にしたことがある男性も多いことだろう。15年にweb版に移行している。
 
92年から00年、01年から04年まで編集長だった小俣千宜によれば、同誌の最大の特長は「PR誌でありながら、内容について会社から全く指示を受けなかったこと」だった(『「花椿」ト仲條』)。84年から92年まで編集長だった平山景子の下で、88年から編集部にいた林央子も「企業の発信する媒体であり、売り上げを問われるわけではない。『花椿』は、その発信行為に企業が価値を見出すということが存在理由」だったと記している(林『わたしと「花椿」』)。マーケティングによる誌面作りをしないのである。アートプロデューサー後藤繁雄は「コマーシャルとカルチャーの融合という、社会、あるいはクリエーターの見果てぬ夢を、『花椿』は、奇跡的に実現してきた」と称讃している(「花椿」ト仲條』)。このような同誌の在り方を通じてわれわれは、資生堂という会社が単なる営利企業ではなく、独自の哲学を持つ集団であることをうかがい知ることができる。
 
第10代社長福原義春は芸術を愛する企業人として知られ、企業による芸術文化支援として「現代詩花椿賞」(以下、花椿賞)を社長就任前の83年に創設した。受賞作は『花椿』誌上で発表された。同賞が30周年を迎えたときに、福原は創設時を回想して次のように語った。「私の知っている限りでは、宗左近さんのご提案によって始まったと記憶しています。私は宗先生を尊敬しておりますが、宗先生と当時の『花椿』編集部との出会いがあって実現したものです。どこにも属さない賞を作るというコンセプトで、第一回には、宗先生にも選考委員に入っていただいて、毎年一人ずつ選考委員が変わっていくというステムを考えました。先にH氏賞や高見順賞などがありましたし、それらと伍してひとつの存在感をあらわすことができるかどうか、選考委員の方が受けて下さるかどうか、当時はとても心配でした」(『現代詩手帖』13年4月号、城戸朱理との対談)。
 
数ある詩の賞のなかで、福原がとりわけH氏賞と高見順賞を意識していたことがわかる。なぜふたつの賞を意識したのだろうか。それぞれの賞を、少し詳しくふりかえってみることにしよう。
 
H氏賞は日本現代詩人会(49年会員43名で設立。24年現在会員約1000名)が主催する新人賞で、詩壇の芥川賞と言われる権威を持っている。50年に創設されたこの賞は、会員非会員を問わず新人の詩集すべてが選考対象で、会員のアンケート結果に基づき高点順に8詩集を選び、選考委員会の多数決投票による追加詩集を候補に加えて選考委員会で審議して決定する。委員の意見が対立して決定し難い場合は多数決によって決定する。
 
H氏とは協栄産業株式会社創業者平澤貞二郎のことである。彼は戦前にプロレタリア詩人会委員長を務めた詩人だったが、2・26事件(陸軍皇道派青年将校によるクーデター事件)が起きた36年に詩作を断念して実業に転じた。現代詩人会に私財を寄付した彼が匿名にこだわったのは、当時の日本が連合国軍占領下にあり、しかもレッドパージ(日本共産党員と支持者の公職や企業から追放)の時代だったため、「かつてプロレタリア詩人会を結成していた者がその名前を出して、せっかく築いた事業を無くし、ひいては詩壇へも弾圧が加わるようなことがあってはならない」(平澤照雄「H氏賞のいわれ」)と考えたからだった。アジア初の開催だった東京オリンピックの翌年に当たる65年に村野四郎が平澤の名前を公開したのは、H氏とは佐藤春夫ではないかとの憶測が流れ「このままでは提供者に申し訳ないし、もう思想弾圧のある時代ではない」と判断したからである。
 
民間の企業人による芸術文化支援、いわゆるメセナの先駆けであり、福原が強く意識したのは当然といえよう。第1回の選考委員は安藤一郎、北川冬彦、木下常太郎、草野心平、村野四郎の5人だった。創立50周年に東証一部上場を果たした協栄産業株式会社は、60周年を機に芸術文化支援の一環としてH氏賞のほか、関連資料や蔵書の保管、電子記録作成に協力している。
 
なお、日本現代詩人会は現代詩花椿賞創設と同年の83年、前年に詩人澤野起美子が私財1000万円を同会に寄附したことから現代詩人賞を創設している。澤野は84年にさらに2000万円寄附している。日本現代詩人会のサイトにはH氏賞と現代詩人賞の紹介があるが、平澤貞二郎と澤野起美子の名前はない。本人の意をくむ遺族の要望と思われる(同サイトに公開されている会則のH氏賞選考基準第8条には「この賞の賞金・記念品代・選考委員会等の諸費用は、公益信託平澤貞二郎記念基金より提供を受けるものとする」とあり、現代詩人賞選考基準第8条には「この賞の賞金・記念品代・選考委員会等の諸費用は、公益信託現代詩人賞澤野起美子基金より提供を受けるものとする」との記載がある)。
 
詩壇で最も権威ある賞とされた高見順賞は、高見順(65年没)の妻・秋子から『高見順全集』の印税を詩人の顕彰に活用してほしいと小田久郎に申し出があり70年に創設された。主催の高見順文学振興会は思潮社内にあり選考実務は同社が行った。第1回は、各詩誌時評等の対象となった主だったもの60冊を事務局が集め、これに全国詩人団体及び主要詩誌・詩人へのアンケート回答100通により20冊を追加、合計80冊を選考委員が13冊に絞り、選考会で審議して最終決定した(『高見順賞五十年の記録』)。
 
第1回選考委員は鮎川信夫、大岡信、清岡卓行、谷川俊太郎、寺田透の5人だった。選考委員のメンバーが決定した後に、小田久郎が平野謙に挨拶にいくと、4点の助言をされた。選考委員は奇数にする、受賞者は1名にする、選考委員の作品は受賞させない、女性は選考委員に入れないというものだった(小田久郎「「高見順賞」設立のあとさき」)。選考委員5人は適宜交代したが、大岡信、中村真一郎が7年、田村隆一、山本太郎が6年続けている。女性委員は86年度の大庭みな子が最初で、以後、白石かずこ、馬場あき子が就任している。ちなみに80年度に中村稔に交代した山本は、全詩集全4巻を思潮社から刊行した78年に長年の盗作が生野幸吉の告発で明らかになった。当時いたずらにスキャンダル化せず冷静にこの事件を追及したのは嵯峨信之の『詩学』だった。
 
81年に思潮社が事務局を返上したのは、『現代詩手帖』で活躍する「中堅詩人の持ち回り」の賞との風評が広がり、これは選考事務を同社が代行していることに由来する誤解と小田が受け止めたからである。「思潮社が影で糸をひっぱっているなんてことはありえない、できっこないことだが、僻みをもつ一部のひとたちはなぜかそのほうに、曲解してしまうのだ。(中略)高見順と高見夫人の詩と詩人にたむける純粋な遺志と、その趣旨に共感して高見順賞の歴史を築きあげてきた歴代の選考委員たちの詩的使命感が悪しざまにいわれるのは、事務局を担当する私にとっては耐えがたく許しがたいことだった」(小田前掲)。
 
参考までに第1回の選考経緯を確認すると、選考委員が絞り込んだ13冊中9冊が思潮社の詩集だった。さらに5冊に絞られたなかでは4冊が同社の詩集であり、最終的に2冊に絞られた詩集が両方受賞したが、どちらも思潮社の詩集だった。また81年までの全11回のうち思潮社の詩集が8冊受賞していた。59年、匿名投書に端を発するH氏賞事件が起きたときに、小田久郎は創刊したばかりの『現代詩手帖』で「戦後詩壇最大のスキャンダル」としてセンセーショナルに追及した。事件の詳細は『H氏賞事件の全貌』(62年)に詳しいが、小田の高見順賞事務局辞退は、李下に冠を正さずとの判断だった。
 
小田久郎と同じ31年生まれの福原義春は、以上のような事柄を周到に調査し、当時知り得るすべてを熟知したうえで現代詩花椿賞を創設したものと考えられる。花椿賞が選考委員を偶数の4人としたのは、多数決による受賞作決定を避けるためだった。第1回の選考委員は飯島耕一、大岡信、宗左近、吉原幸子の4人だった。吉原の後任は新川和江、白石かずこと続き、やがて男女2名ずつになった。「審議にあたっては、全員が合意に達するまで徹底した議論が尽くされる」(『現代詩花椿賞三十回記念アンソロジー』)とあるが、複数の委員経験者の文章を読む限りそのとおりだった。「毎年一人ずつ選考委員が変わっていく」とも福原は発言しているが、宗左近、吉原幸子、吉野弘が6年続けて選考委員をしているので、途中からルールが変更されたのだ。非公募でアンケートも行わず、4人の選考委員が推薦した候補作から選定するので、委員の固定は望ましくないのである。
 
「どこにも属さない賞を作るというコンセプト」とは、外部からのいかなる干渉も受けないという意味であろう。福原は先に引いた城戸との対談で歴代受賞者をふりかえり、「不偏不党と言いますか、いろんな性格の詩人の方が受賞されています」と述べた。資生堂の威信にかけて清浄潔白な賞にするという固い決意と、それを維持するべく最大の努力を重ねてきた自負がうかがわれる。花椿賞が紹介される際に、ほぼ確実に選考方法が言及されるのは、選考委員に最高度に高潔厳正な審査を迫ることこそがこの賞の核心だった事実を証している。
 
花椿賞の正賞は1点物の特製香水入である(副賞は100万円)。香水ではなく香水入れである。「ことばを拾い、編み出して詩を作るのは、香水を創るのによく似ているのかも知れない」と福原は語った。この言葉は含蓄に富み、聞いた者を思索に促す力を持っている。
 
筆者はここで、45年5月25日の東京空襲で焼夷弾に被弾して顔面に大火傷を負った田中美知太郎を連想する。理由は後述する。プラトン学者として名高い田中は、自伝『時代と私』のなかで当時をかなり丁寧に語っている。なお引用文の歴史的仮名遣いは原文通りである。「警報とともに門内の空地につくつた防空壕に母と二人で入つた。するとすぐにあたりが真昼のやうな明るさになり、異様な物音が耳をふさぐ。わたしはほとんど反射的に外へ飛び出しかけて、そこで焼夷弾の油脂を真正面から浴びることになつてしまつた」。
 
「当時の病院は負傷者がいつぱいで、人でも薬品も不足し、手や足の火傷は、まるで野戦病院のやうに、どんどん切断されたといふことだつた。わたしの家の者は顔みしりの薬屋からタンニンをわけてもらひ、これの水溶液にひたしたガーゼを、わたしの顔や手に当てるといふやり方を、根気よくくりかへすだけだつたが、そのほかに病院がどんなことをしてくれたのか。何も記憶はしてゐない。わたしの顔や手からは不断に膿汁が流れ出して、すぐにガーゼを汚してしまひ、それが皮膚と癒着し、ガーゼを取りかへる度に皮膚がはなれて、はなはだしく苦痛であつた。火傷の痛さは日常経験で誰でも知つてゐることなのだが、わたしのやうな大火傷になると、かへつて苦痛の限度を超えてしまふのか、火傷そのものの苦痛については、たしかな記憶が何もないのである」。
 
田中は杉並区の河北病院で2週間人事不省だった。したがって上記の内容は周囲にあとから聞いた話なのである。「この病院でわたしは意識を回復したわけであるが、しかしなほ顔一面繃帯に包まれてゐたので、はじめのうちは未だ何も見ることができず、盲目の生活をしなければならなかつた。わたしはせめてよい香りをかぎたいと思って、香水を買つて来てくれと頼んだが、空襲で大混乱の町に香水を売る店のあるはずもなく、香水がほしいなどとは不心得の非国民として罵られるのがせきの山だつたらう」。

このときの田中にとって香水は、無くても困らぬ贅沢品ではなかった。その芳香は、生きて今、地上に在ることの幸福そのものを意味していたのだ。贅沢品であるとともに必需品でもあるという両義性において香水と詩は似ているのではないか。なお、このとき京都から香を送ってくれたのはカント学者高坂正顕だった。
 
小田久郎も45年3月の東京空襲で自宅から焼け出されている(小田『10枚の地図』)。高見順賞創設に関わった彼は、09年『現代詩手帖』創刊50周年を機に鮎川信夫賞を創設した。『朝日新聞』が、画壇や論壇といった「壇」の権威衰退と今後について報じた記事のなかで、「壇」復権の試みとして鮎川信夫賞に言及しているので引用する。「あえて権威を回復させようとする試みもある。詩誌『現代詩手帖』を出す思潮社の社主小田久郎さん(79)は、専門家がきちんと評価する「鮎川信夫賞」を今年創設した。「その年の現代詩の頂点を選ぶ賞」だ。「ネットの発達などで、言葉による表現は全体に落ち込んでいる。だからこそ、評価システムを機能させ、新しい表現が切り開かれるようにしたい」」(10年12月4日)。
 
主催は鮎川信夫現代詩顕彰会だが事務局は思潮社内にある。世間の誤解から高見順文学振興会を思潮社と切り離した過去に鑑みれば、鮎川信夫賞は小田が創設した思潮社の賞であることを明確に示したのだろう。実際、第1回の詩集部門の受賞は新潮社だったが、最終候補7冊中6冊が思潮社の詩集で、5冊に絞られたうち4冊が同社の詩集だった。詩論集部門は最終候補5冊中4冊が思潮社で受賞は思潮社。さらに特別賞受賞も思潮社だった。
 
鮎川信夫賞が詩集部門と詩論集部門2本立てにしたのは新機軸だった。第1回選考委員は辻井喬、岡井隆、北川透、吉増剛造の4人。委員の数を偶数にしたのは花椿賞に倣ったのかもしれない。しかし辻井が没して13年に3人となり、14年には岡井が抜けて北川と吉増の2名になった。補充も交代も行われないので、創設以来の選考委員2名が選考する仕組みになっている。ここは花椿賞と異なるところである。19年の第10回選考を伝える新聞記事によれば、事務局が詩集の最終候補を6冊に絞り込み、ふたりの選考委員が数時間討議して決定したという(『朝日新聞』19年3月5日)。
 
鮎川信夫賞創設の10年前、小田は次のように発言している。「荒地」の詩人たちが「生き方で共通しているのは、現世での立身出世を求めなかったことです。田村[隆一]はそれでも死の直前に年金目当てに[日本]芸術院賞をもらったけど、北村太郎は紫綬褒章を断った。生涯無冠だった鮎川信夫は、民間の詩人賞だってもらおうとしなかった。さすがですね」(『朝日新聞』99年6月4日)。このように小田が感服した鮎川だが、彼の名を冠した賞の選考委員は、4人全員が日本芸術院会員か日本芸術院賞受賞者、紫綬褒章受章者になっている。(現代詩と天皇制については拙稿「荒川洋治小論 現代詩・大衆・天皇」『季報唯物論研究』169号参照)。
 
現代詩人賞を創設した83年、日本現代詩人会がH氏賞選考委員を11人から7人に変更したことを高良留美子は後退と捉えた。以下引用に際しては漢数字を算用数字に改めた。「少人数だと、1人の人の強力な主張がその場の雰囲気を支配してしまうことがあるからだ。熱心な主張はいいのだが、候補者のなかに選考委員の友人、知人や弟子がいることもある。選考委員が10人以上いるとその雰囲気を散らしてしまうためか、かえって一人ひとりが自由な発想をすることができる。さまざまな地方、さまざまな考え方をする詩人たちが選考に参加することが大事なのだ」(「入会した頃のことなど」)。このように、選考委員は多人数の方がよいという考え方もある。
 
花椿賞は17年に第35回で終了した。高見順賞も18年に第50回で終了した。23年に没した福原は、90年に設立された公益社団法人企業メセナ協議会の中心人物で、実務を担う理事長だった。会長は昭和電工名誉会長鈴木治雄、副会長はサントリー社長佐治敬三、ワコール会長塚本幸一、西武セゾングループ代表堤清二(詩人辻井喬)、理事に鹿島建設会長石川六郎、京セラ会長稲森和夫、ソニー会長大賀典雄らが就任した。企業は余裕があるので文化支援などと言っているが、不景気になれば見向きもしなくなるのではとの声に福原は「そうしたことのないようにしていくのがこの協議会の役割だと思う」(『朝日新聞』90年3月16日)と、昂然と述べた。同協議会サイトで会員リストを見ると、有名企業がズラリと並んでいるが、協栄産業株式会社の名前はない。はるか昔から独自の企業哲学で芸術文化支援をしてきた誇りがあり、大勢の中のひとりとして世に知られることを望んでいないのかもしれない。
 
福原亡きあとの資生堂の芸術文化支援はどうなったのか。24年現在、Web版『花椿』は「今月の詩」と題した読者からの公募を受け付け、毎月1篇を『ウェブ花椿』とTwitterアカウントで発表している。Web版『花椿』には「「詩」を探しています。」という記事がある。「今年も、気軽に口ずさむように、きらっと心に感じたことがあなた自身のことばで表現されている詩をお待ちしています。優れた文学作品としての詩を選んで発表しよう、というより、美しい生き方を詩のなかから教えていただこう、それを多くのみなさまに触れていただこうと考えています。/みなさまの詩をお待ちしております」(24年4月5日)。審査員は詩人とラッパーのふたりである。24年10月には「「今月の詩」を読む会」を資生堂銀座ビルで開催した。作者と審査員が対話をして朗読をするという、誰でも無料で参加できる交流イベントである。
 
福原の遺志かどうかは詳らかにしないが、資生堂は有名詩人を顕彰することから市井に生きる人々の詩に光を当てることへと方向転換したのだ。「優れた文学作品としての詩を選んで発表しよう、というより、美しい生き方を詩のなかから教えていただこう」という言葉には、「通学や通勤の電車の中で/学校のキャンパスや/日曜日の公園や/街の喫茶店や/旅ゆく列車の中で/みんなが週刊誌や文庫本やマンガの雑誌を読むように、詩を読む世の中がきてくれたら、そしてみんなが詩人になって、詩をつくる世の中が来てくれたら」(清水『二人で一人の物語』)という『鳩よ!』創刊者清水達夫の思いと響きあうものがある(拙稿「指揮者のいないオーケストラ 『鳩よ!』の登場と失速」『詩と思想』24年7月号及び「羽ばたきの記憶 詩誌『鳩よ!』の休刊」『汽水域』4号参照)。現代詩花椿賞から「今月の詩」への移行は、資生堂の芸術文化支援の後退を意味しない。かといって前進というわけでもない。むしろ思想的な深化と捉えるべきである。なぜそういえるのか。
 
冒頭で名を挙げた今道友信はパリ大学で教鞭を執り国際哲学研究所所長を務めた美学者で、詩集『チェロを奏く象』を持つ詩人だが、東大退官後いくつかの大学で教鞭をとり、74歳のときに日本美容専門学校校長に就任した(拙稿「詩人としての今道友信先生」『ムネーモシュネー』20号参照)。美容師になる生徒たちは、美という言葉から離れるわけにはいかず、美についてよく考えてみることが必要と今道は考えた。彼は新概念である実践美学を構想することになる。(actio aesthatica, actio calonologica, calonologica practica など複数の名称を用いて今道は術語化を試みている)。「美の実践として、世界の一般の人びとの役にたつのは、たとえば美容の仕事も、その実践は美の実践であり、それを受けた者も美しくなり、幸福になり、それを見る者も世界がそれだけ美化されることをよろこび、幸福になる。偉大な芸術家もわれわれ一人ひとりも、ビルの窓ガラスを拭いている者も、みな美の実践者である」(理論の詳細は今道『美について考えるために』参照)。ちなみに資生堂も59年に資生堂美容専門学校[現資生堂美容技術専門学校]を創設し、23年3月までに12000人の卒業生を送り出している。
 
万人が美の実践者となりうる――これが彼の美学の到達点だった。このような認識に至った背後には、長年のダンテ研究があった(今道『ダンテ「神曲」講義』)。『神曲』の思想的中心は、多くの人々を惹きつけてきた地獄篇にはなく、煉獄篇にもない。世界美化へと全人類の方向転換を祈る天国篇にあるという確信である(『朝日新聞』02年12月2日)。この観点からみるならば、無名者によるささやかな詩作も世界美化の実践である。そのとき人は、芳香に満ちた世界を創造しているのである。今道は実践美学の提唱が冷笑を浴びることを覚悟していたが、「世間がわかるまで放置しておけばよいという態度は不適切で、その新しい概念のもとで運動している者が絶対にとってはならない所業である」と自他を戒めている。しかし彼の没後、理論の継承はなされていないように見える。
 
実践美学は「人間がみんな詩人になるべきだ」「それこそが地球を幸福にする叫びなのだと私は思うのです」(清水前掲)という清水達夫の思いにも理論的照明を投げかけるものである。『鳩よ!』のアートディレクターをリニューアルまで16年間手掛けた新谷雅弘は、清水が考えていたことは一度も実現できなかった。歴代編集長の誰も理解できなかったと語ったことがある。創刊号から既成の詩人をとりあげて『現代詩手帖』になってしまうような編集をしてしまった。清水は詩の雑誌を作れと言ったわけではない、「詩というモノの本質はなにかというところから企画を考えていかないと、ああなっちゃうんだよね」(塩澤幸登『雑誌の王様』)。詩というものの本質、それを世界美化の実践と捉えることは、「詩の雑誌としてとらえちゃダメなんで言葉を面白がる雑誌だったんだよね」という新谷の捉え方とは確かに角度が異なるが、詩という言語芸術に新視点から接近する道を切り開くものと言い得るであろう。
 
東京大空襲で小田久郎は自宅を失くしたが、宗左近は置き去りにした母を亡くした(宗『炎える母』)。同じ日に田中美知太郎は自身の顔を失った。アメリカ軍による大規模な焼夷弾戦略爆撃で民間人10万人が死んだ。いつの時代でも、国家指導者たちには戦争を回避する責務があるが、名もなきわれわれのささやかな行為――詩作はことさら言うべくもあらず、日々の暮らしの中で無邪気な子どもに微笑みかけるような行為ですら世界美化の実践である。この世の無常を痛切に認識していた聖者が「この世界は美しいものだし、人間のいのちは甘美なものだ」と呟いたのも、そんなありふれた情景を見てのことだったのではなかろうか。

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