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前編)メンタリストDaiGoに憧れかけてた限界店長の話

2021.8.16
ちょこちょこ具体例と説明を加筆

誰が読むかわからないから
本題に入るまでが長いんだけど、
ちょっと我慢して読んでほしい。

メンタリストDaiGo の今回の件って、
彼自体が特別なサイコパスってよりは

「人間味をかなぐり捨てた
成果至上主義の限界社会」

が生んだものかもしれなくて、
それはわたしだったり、
どこかの人だったりするのかもよ、って話だ。


時事ネタのくせに10,000字ぐらいある。すんごい。
仕事サボって書いた。
担当さん、本当にごめんなさい。


ちゃんと読まれないだろなって思ってるし、
興味のあるとこだけ読んでもらってもいいと思う。

(けど、読み飛ばしてるくせに文脈丸無視で突撃はしないでほしい


これは自戒と、じぶんへの労い・応援もこめて
ここ最近のわたしの危うさについて
残しておくものだ。

きっと世の中には、わたしと似たような

“報われ” の為に憧れを持ってきた人

がまだまだいるんじゃないか
と思っていて、
その孤独と危機に襲われている人と
いつか話せたら、お互いに少しは
まぎれるんじゃないかな。


《近況:心折れている報告》

※前編はしばらくじぶんの仕事の話をします



今の世の中でどうやって稼いだらいいんだろう。
この一年間そればっかり、ずっと考え続けてきた。


SNS が最近しんどいのは、
どこもかしこも
「何者か」である人で溢れているから。

もっと言うと、

何者かとして扱われることに
必死にならなきゃいけない感じ

がするのが、しんどい。

フォロワーやチャンネル登録者を稼ぐとか
それで多くの支持やお金を得るとか、
そういうのの為に、
キャラクター性を持たせて人前に出る。

それがわたしの感じる「何者か」って意味。

YouTuber ヒカル=金持ちYouTuber みたいな
「色」を出してくとでも言うか。

さて「わたし」は、と言えば
「橘みつ」として仕事を始めてから
4年ほどになるけど、時が経つほど逆に
「橘さん=???」
ってなっていく感じが否めない。

確かに最初から今まで、周囲からの認識は
「ちょっと変わった“レズ”風俗*の店長」
なんだろうけど

やってることが文章じゃ伝わりづらいし、
140字でバズらせたことも無いしで
女性向け風俗が発展した今となっては
目立つことも少なく、
何の人とも思われていないのが現状じゃないか
(違ったら誰か教えてほしい)。

* レズ風俗という呼称は、蔑称の歴史や業態を正しく表現していないことから、近年避けられているが、今回は周りからの扱われ方を表現するために敢えてこう書く。なおこの議論は過去にさんざんしてきたし、(note に一覧にしてある)各メディアで毎度見解を書いているので、気になった人は読んでほしい。


とはいえ年々
わたしのことを橘さん/みつさん
と呼ぶ人が周りに増えて
それがわたしの存在を肯定してくれるみたいで、
嬉しく思ってきた。

「橘みつ」は
新卒で解雇されて行く場も無かった「わたし」が
どん底から這い上がって
生き返った証みたいなものだから。

社会とうまく繋がれなかった「わたし」を
橘みつに託したから、
この先も生き続ける見通しがついて
だいぶ楽になったとこもある。

今わたしをちゃんと本名で呼ぶ人は、
病院や役所の窓口くらい。
わたしにとって いちばんこわいのは、
何ものでもない本名のじぶんだけが
この世に残ることなのかもしれない。

アルバイトを変える度に出す履歴書は
「”わたし”がこの社会で何ものでもない」
ことを、面接を通して突きつけてくる。


だから正直に言って、
この一年は本当に苦痛に満ちていた。

コロナも二年目に突入し、
どうやって過ごすべきかが現実として
世の中に浸透してきた。

「感染対策すると人と会うのが難しい、
まして風俗なんて濃厚接触もいいとこ」

ってのは、
本当はみんな最初から分かっていたことだ。

けど、一年かけてたくさんのことが
科学的に明らかになっちゃったからこそ、
考え方の「逃げ場」が無くなったんだと思う。

コロナ元年より更に予約は激減して、
仕事は月に数本とかいうのも、今年はザラ。

「橘みつ」で過ごすよりも
本名の「わたし」で過ごすばかりだった。
利用できそうな制度を探しては、
本名でサインする日々。

執筆の仕事がかろうじて
橘みつの輪郭を保ってくれていたけど、
それは今までのようなハッキリした勢い
とかは無くて
出涸らしのお茶みたいにボケてる気がする。


発信するエネルギーは、
人と関わることで発電されてきた。

コロナでそれが無い今でも
「やりようはあるし、探してないだけじゃん?」
と、言われるのもわかっている。
特に、
わたしを予約したことが無い人たちからは。

「対面して同じ空間に過ごすこと」
が叶えてきた
親密感と緊張のやわらぎと穏やかな対話は
その場にあるライブ感みたいなものが
たくさん作用して出来上がる。

それって体感しないと伝わらないし、
オンラインが重宝される今の時代では
どうしても軽視されるものなのかもな
と思ってしまって、
説明するのも億劫だから
「そうですねぇ」としか言わないけど。


誰にも会えない
(=感染症が会うことを許してくれない)なら
ほんとうは何も考えたくない。

どうやって集客するかとか、その最たるものだ。
コース料金を下げてお得感を出す
とかそういうのは、
少なくとも今の東京では
根本的な解決策じゃないと考えてる。

1年前までは
コロナより先に経済苦で死が来る
と思っていたから、
そういうのも有効だったかもしれない。

うちもなんとか通常稼働をキープしたし、
世の中の考え方ももう少し緩くて
「まぁ来年にはなんとかなるっしょ」
くらいの人が多かったんだと思う。


でもこの夏、
冗談みたいな政策・施策ばっかり
目の当たりにして
医療資源のひっ迫も感染者数もものすごくなって

いよいよ「どうにもならない」と感じた人は
増えたんじゃないか。


みんなに会いたい、でも来てくれって言いたくない。

その人が都心でコロナにかかって、
搬送先が見つからず二度と会えませんでした
ってなりたくないから。


今の状況下では、
経済苦とコロナと偶然の緊急事案が、
ぜんぶ同じ確率で死を連れてきそうな気がしてる。

来月はもっと仕事が入るかも、
バイト先でコロナにかかって家で苦しむかも、
緊急なことに巻き込まれて
搬送先が見つかる前に死ぬかも…
それはぜんぶ神のみぞ知る。

そんな中で何をしたらいいのか、見えない。
でも何もしなかったところで、
残るのは「誰でもないわたし」だけだ。


どれも地獄。
どうしよう。考えろ、考えろ。



超絶長い前置きはここまで!!!
不安をぶちまけたところで、本題に入ろう。



《“限界”が連れてくる憧れの性質》


そんなこんなで不安なわたしは、

「あちら側」にどうやって行くのか

というのがここ最近わたしの関心事だった。

「あちら側」というのは、

目的のために効率よく行動して

じぶんを高めていくことで支持者を増やし

高額の所得を生むことに成功する


人たちがたくさん居るあたりのこと。


“炎上”真っ最中のメンタリストDaiGoとか、
ホリエモンとか、プペルの西野とか、
ホストのRolandとか、YouTuber ヒカルとか
再復活してきたひろゆきとか。


顔とやっていることを並べると、
そこに流れている空気感って
どこか同じものがある気がする。

あの人たちの語る言葉には
不安や迷いが無いから気持ちいいし、
大体の人はそれが出来ないから、憧れる。

つまるところ、
人間味が薄いほど鋭い切り口の発言に、
わかりやすさ=価値がある。

もにゃもにゃ言い訳しない、
目的達成のための合理性を追求した感じというか。
とにかく、
自己責任論に結びついた自己研鑽の姿勢
と相性がいい感じ

しかも
決断に至るまでに生まれた葛藤とか、
浮かんでいた他の選択肢とか、
切り捨てた人やモノとか、
そういう「人間味」っぽい部分は
“素顔”のドキュメンタリーとしてパッケージ
し直されて、また新しい層を連れてくる
商品にできる。


人生が丸ごとコンテンツになっていて
まったく 「無駄が無い」


そういう「あちら側」に、
弱っていたわたしも例に漏れず惹かれた。

わたしはじぶんのやり方が効率悪くて
わかりづらく・広まりづらい語り方なことを
この仕事を続けるほどに
強くコンプレックスとして感じてるし
「今ひとつ実を収穫できていない」
という不満も強い。

「実」というのはおカネだったり、
フォロワーだったり、記事のPV数だったり
そういう数字のことなんだけど

これは絶対数は少なくたって
ちゃんとお客さんに「会えていた」時期には
さほど気にせずこられたもの
だ。

収入が安定してたってこともまぁあるけど
それよりも
会うみんなが言葉を丁寧に
わたしに伝えてくれていたから。


「わたしが発信したことに対して
その人なりのアンサーが聞ける」

という中でなら、何も怖くなかった。
インターネット上と違って対面では
とんでもなく傷つけるような言動をする人も
稀だしね。

そういう言葉がエネルギーになって
また優しい時間を作ろうと思えてた。

結局それが無くなったら、
「数字=成果至上主義」の弱肉強食な世の中に、
わたしも結局囚われていた。
コロナによる生活苦と相まって、
身につけたい・羨ましいと思ったのが
彼らの手法である
「効率よく人とおカネを稼ぎ出す語り方」だった。

「ああいう“報われた”人になりたい」


と思ってしまったのは、
苦しい日々の中では自然な成り行きだったと思う。


でもあれは“報われ”てなどいないって、
いまやっと明確に否定できたから、
このエントリーを書けている。


《思想を持つこと/“価値”のつけ方》


ここで一旦、
一見すると全然関係なさそうな話題にうつる。

いまの世の中が、
どんなものに・どうやって価値をつけているか。
ここだけで「ああね」ってなる人は
飛ばしていいと思う。

「性」に関するシーンで言うと
最近人気の「猥談バー」を筆頭に、
カジュアルでフランクな「性」の発信は
今じゃ性教育・啓発を広い層に実現し始めてるし

インスタでは海外の「性」に関する取り組みや
グッズを紹介するアカウントがあって、
Z世代や富裕層を中心に関心の高い
エシカル/サステイナビリティの観点からの
発信も増えた。

「どんなじぶんが自然か≒よりよく生きること」に
注目が集まってきていて、
それをいろんな面から語る人が
ほんとうに増えてきた。

きっと、これからはもっと
「生きやすく感じること」への価値が高まる。

「どんなじぶんが自然か≒よりよく生きること」

って

「これをしているじぶんがイイ」
とかよりもっと曖昧で、なんというか

「思想を持つ」

ってことだと解釈してる。


「思想を持つ」ってつまり
「これをするって判断するときの軸は何か」

ってことで

どこかから行動テンプレートを丸っと引っ張ってきて
一括インストールするものではない
よな、
という風に考えている。

んで、価値が高まるというのは
それを必要とする人が増えるということだけど、
それって
「おカネを生み出す」匂いを嗅ぎ取られている
という意味でもある。


「どんなじぶんが自然か」を考えることは、
「イマの時代こういうのが良い!」って作られた
“流行”に乗ることとはちょっと性質が違うはず

…なんだけど
「これをこうやるのが素敵でおススメ!」
みたいに結局誘導されていく感じがしてて、
モヤモヤが止まらない。

たとえばさ
朝ちょっと早く起きて
10分かけて白湯を飲むとか
花を買って毎日水を変えるとか、
そういう行為そのものが
「より良い生きかた」だと扱われることが
ちょこちょこあって、違和感がある。


10分長く布団にいる方が元気が出る人
もいるだろうし、
花の世話をすることが
癒しよりもタスクにしかならない人
だっているわけで。

で、こういう議論を広げると
揚げ足を取るように

「人それぞれ何がいいか違うのなんて当たり前」
「だから""多様性を考える"'なんて
わざわざ発信・検討することじゃない」

みたいな薄っぺらさに突き進んでいくんだけど、
今は違う話をしたいからちょっと待ってほしい。


LGBTを筆頭にしたその「多様性」は、
そういう流行的な“価値”を見出された領域だ。

「広まっていくのはいいけど、
捉えられ方がちょっと違うよねぇ。
大丈夫かな(大丈夫じゃない)…」

ってのは、
多様性を重んじて
日々活動をしている人たちの間では
長いこと議論されてきた。

たとえば、
大企業も巻き込んでパレードを開催したけど
一部の企業ブースは形ばかりで、
テーブルと椅子だけ出した休憩所になってた
という話とか。


「企業の多様性イメージアップ」に利用された形に
怒る人もいたけど、一方では
「大企業も巻き込めてすごいイベントじゃん!」
っていう方向で勇気づけられた人もいたと思う*。

* ちなみに、それで勇気づけられた人がいたこと自体は怪我の功名というか、その人が元気づけられたことが素敵なのは変わらない。そういう受け取り方をした人を批判すべき、ってことじゃないと思っているよ〜ってのは伝えておきたい。


たぶんこれも
「よりよく生きるため」に
じぶんが白湯を飲んだり花を買うってことが
本当に大事なのか?
って話と同じで、
大事なのは「企業ブースが出てること」じゃない。


注目するところは
思想(≒判断する軸だし、叶えたい目的)は何?
っていう動機の部分で。


「社会の多様性を推し進めたい」
ってのが
ただの建前なのか/ちゃんと考えたことなのか

実際にやってること
(椅子とテーブル出しただけなのか/
自社の強みを掛け合わせた催しをするのか)
でまぁまぁ判断できるよね、と思う。

後編へ続く!

(note 用に改行も入れてくと、本っ当に長い…
後編の方が論点盛りだくさんで、メンタリストも
ちゃんと出てきます…!)



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