見出し画像

菫色の憂鬱

「まぁ、あなたにはもう関係ない事かもね。」
何度目の夢だろうか。あれから2年も経つっていうのに。
今でも幻のようにちらつく元姑が私の睡眠を遮っていく。

一番の原因である人物が、さも自分のせいではないというような表情で話す顔は、こんなにも滑稽だったのかと改めて感じるような瞬間だった。
いつの間にか我慢の糸はとっくに切れてしまっていたらしいのに、見てみるふりをしていた自分自身も、今となってはバカらしいと感じてしまう。
結婚前と離婚直後はあんなにも大騒ぎしていた実家の母も、今では何も言ってくることはない。

味方のいない世界から解放されて、一人でいた方がずっといいのはずっと前から知っていた。実際にそうで、一人暮らしも2年目に差し掛かり好みのもので固めたアパートの一室の中では自分が女王様かなにかになったような気分にもなる。好きなものを食べ誰にも邪魔されることなく独り占めできる時間はいくつになってもたまらない。
元々一人でいることが苦ではない私には、そもそも結婚なんて向いてもいなかったのかもしれない。

だけど『結婚してしまった』という自分の経歴からなのか、何かしこりのような穴のような、よくわからない気持ちは日々大きくなっていて、私の脳内を圧迫している。

やっと楽になれると思っていた。

なのに過ごしている時間は自分だけがずるずると重たい毛布を引きずっているような感覚にさえ感じる。

ようやく終わった大型のプロジェクトも、責任者として任されてしっかりと成功をさせた。
だけど何だろう、何一つ満たされた感じがしない。
肩の力が抜けたのは悪いことではないのかもしれないけれど。

ふいに香ってきたのは桃子が淹れてくれたコーヒーの香りだった。

「朝のリラックスタイムに一杯いかが~?」
「ありがとう。香りからして助かるわ。」
「離婚手続きだって忙しいのにそこから先がずっと忙しかったもんね。」
「ようやくって感じだよ。頼ってもらえるのはありがたい限りだけどさ。」「そんな大変なあなたに私からプレゼント。」

渡してきたのはリラクゼーションサロンのお試しチケット。
最近出来て話題となっていたものの、
このごろはようやく落ち着いてきたからって彼氏と行くなんて言ってたっけ。

「え?…まさかの?」

こっちとしては困惑しきりだ。3年以上も付き合っていたのに。
彼女の今までの経歴を考えればかなり長い。
話を聞いているだけだったけど、私だって結婚秒読みだと思っていた。

「そのまさかだよ。まぁお互い納得の上だし、応援しあってるから後悔はしてないんだ。」

桃子は明るくいつも笑顔でいる。同じ年代なのにもかかわらず、なんだか子供と話しているような天真爛漫ささえ感じる。
それでいて私の話を聞いてくれ、自分の辛さは外には出さないひたむきに夢を追いかける芯の強さは、私なんかよりもずっと大人なんじゃないかと思っていた。
それでも結婚している間も離婚でもめてる間も話を聞いて貰っていただけに、今度は私の番なんて思っていた。なんだか肩透かしを食らったような寂しい気持ちにはなっているんだけど。

「チケット1枚ずつ持ってる状態で別れちゃったからさ、あげるよ。」
「でも桃子だって疲れてるんじゃない?」
「予約してた日に予定が入っちゃったからさ。」

それならありがたくいただこう。
これ以上「予定」とやらの深入りは、大人としてもNGだ。


週末、私は件のマッサージ店に来ていた。
エスニック過ぎない上品な店のたたずまいと内装は、男性でも入りやすい印象を与えている。
ほんのり甘くも自然なアロマの香りは、それだけでも何かを許してもらえた気がした。

不思議な雰囲気の店主だった。
カウンセリングなんて言うマッサージ店なら普通の事は行うものの、それ以上に何かを感じ取っているような。
自分でも気づかないような悩みまでこの人は見ているのではないだろうか。

体の疲れが見えているのではと思うほど、丁寧で的確なマッサージはあっという間に眠りに落ちてしまうほどだった。

友達の家でのお泊り会さえ眠れなくて苦手だった私が、こんなにも体を預けられるとは。
目が覚めた時には時間が経過してしまっていた。
睡眠は人生の3分の1を占めるというが、私はあのころからその睡眠時間に適せるような眠りは取れていただろうか。
そうじゃないなら、きっと私は長生きするのかもしれない。

「お疲れだったようですね。」
「来てよかったです。」

本心のままに話すと店主はふっと顔をほころばせる。
私はその表情に安堵ながらもほんの一瞬だけ、油断したのではないかとも思った。
私の知られたくない離婚歴の理由も、夫があの時最後に言い放った一言も
自分自身は押し込めていたのに、それを見られてしまったかのような感覚。

「この後はどこかに出かけられるんですか?」

店主は定番の一文を言った。

「まだわからないんですよ。本当に体が軽くなったので、どこかに行こうかな。」
「何か面白いものがあるといいわね。」

あぁ、この人にはかなわないと悟ってしまった。
ついさっき初対面で体を預けてしまったこの人に、私は敗北したような気がしてきたんだ。

離婚は間違いじゃないと思いたかった。実際にそうだと思ってる。
だけどその時私の中に穴が開いた。
自分から望んだことでもあるのに、せいせいするとかすがすがしいとかそんな気分にはならなかった。

仕事のプロジェクトが終わった時も、あの時もその時も。
私はずっと同じ気持ちにいた。

「なんかさ、君と話しててもひらひらしたものを掴まされてる気分になるんだよな。」

あの時夫が言った一言は、今なら少し歩み寄って聞けるだろうか。
自分で選んだ道なのに、どこか未練がましさを感じる自分が少し嫌になる。

待合室には一人の男性が座っていた。
やっぱり居心地はあまりよくないのかもしれない。
それでも来なければいけなかったかのような、注射の順番を待っているかのような表情で待っていた。

置かれていた雑誌を手に取る。旅行雑誌だった。
トロピカルな色合いの表紙には豚肉料理が載っている。

帰り道、商店街の精肉店で豚バラ肉を買った。

ちょっとくらい小さな変化を感じてもいいかもしれない。
それが失敗でも成功でも、今の私には大きな変化になるのかもしれないなら。

精肉店にいた精肉店のおばさんが
「今日は豚の角煮?」
と気さくに聞いてきた。
「いえ、ラフテーです。」

キョトンとした顔をしながらもお釣りを渡すおばさんの顔に思わず吹き出しそうになる。

「でも、角煮とラフテーってどう違うんですかね?」

そういえば、商店街での買い物も初めてだったかも。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?