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“あいだ”としてのカフェ
カフェを好きな理由は、カフェには”あいだ”的なところがあるからだとおもう。
”あいだ”というのは、ぼんやりしていて、なにをしていてもいい、日常と日常の”あいだ”だ。
だとえば、だいたいの場所って、用途が決まっていることがおおい。美術館に行けばみんな美術を鑑賞しているし、オフィスは仕事をする場所だし、図書館は勉強したり本を読む場所だ。
べつに、そうゆうところで違う事をしていてもいい。
わざわざ美術館に出向いて友達とおしゃべりをしたっていいし、図書館で映画を見たっていいし、オフィスでツイッターしたっていい。
だけれど、そんなときわたしは”ちょっとした罪悪感”みたいなものを感じる。実際に、図書館で映画をみることはあるけれど、ポップコーンを食べることはない。として、となりの学生にチラチラみられていると思うと、なんだか遠慮したくなったりしてしまう。
でも、カフェには、いい具合の”あいだ”なところがある。別に勉強してもいいし、おしゃべりしてもいいし、くつろいでもいい。いい意味で、肩肘張っていないのだ。
だからこそ、そうゆう場にいるだけで、肩肘張らずに楽しむことができる。勉強やら、遊びやらごちゃごちゃで、自分のしたいことができる。
”これをすべきところ”というのがないからこそ、ただそのきまった概念のある場所でない場所を求めて、カフェにいってしまうのかもしれないなって。
だからこそ、なんだか日常と非日常のあいだ的なところがある。家ほどしっかりした日常ではないけれど、旅ほど肩を貼らなくてもすむ。そんな、あいだなのだ。
そこでは、日常で凝り固まった常識もなくなるし、非日常のちょっと度の過ぎた高揚感もあんまりなくなる。そんなちょうどよさをもとめて、今日もわたしは、カフェに繰り出すんだとおもうの。
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