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まわりのひとに嫉妬しなくなるための考え方とか。


さいきん、だれかに対して、嫉妬をしなくなったのだ。どうしてだかというと、誰かにたいして、「ずるい」とか「うらやましい」って思うのってきっと、そのひとに失礼だ、ということに気づいたからです。

「嫉妬」というのは、なんなのだろうか。たとえば、それは恋愛的な意味でも使われるけれど、まわりのひとの足を引っ張るという意味でもよく使われるとおもう。友達の誰かがうまくいっていることに「嫉妬」したりすることとか。

だけれど、あるときから嫉妬しなくなったのは、たぶん、「嫉妬の対象のひとと自分は別物だ」ということを、身をもって知ったからだとおもう。

どこかでよんだことがあるのだけれど、嫉妬とゆうのは、「自分とおなじだと思っている人」が成功するから悔しいとおもうのだ。うらやましくなるし、ずるいとか思ったりする。たしかに、そうだとおもう。

美人な芸能人が、ファッションショーにでてても、「うらやましい」とか「ずるい」とかは思わない。だって、もとから違うのを知っているから。でも、じぶんのまわりの友達が、とってもステキなひととかと付き合い出したり、スルスルと出世したりすれば、ずるいって思うかもしれない。だって、友達は自分とおなじところにいるひとだと思っているから。

そんなふうにして、嫉妬はする。だけれど、本当に、「そのひとと自分って同じなの?」というのは、疑問だ。

ひとは、自分がもっているものを過大評価するらしく、基本的には、自分を過大評価している。それはとても良いことだ。自尊心がたかければ、うまくいくこともおおい。しかしながら、きっとそのひとと同じかと言われたら、実は違っているところだって、たくさんあるのではないだろうか。

ふと、自分が嫉妬される立場だったときを思い出す。そのときは自分なりにとても努力を重ねて、そのためにいろんな力を注ぎ込んでいた。そして、ちいさな結果がでたとき、だれかが「ずるい」といった。そのひとは、きっと、影の努力とかを知らないのだろう。もちろん、彼女もなにかがんばっていたのかもしれない。だけれど、なんだか「ずるい」って言われるのは違うのになって、思っちゃったりした。だって、やってきたことが、違うんだもんって。

そんなことがあって、だれかに嫉妬してしまいそうなときは、こう自分に尋ねる。「そのひとと同じくらい自分はやりきったの?努力しているの?その方法や方向性はあっているの?」そう考えると、そうでもないなとおもえることがおおい。嫉妬してしまうのが、なんだか失礼な態度に思えてきてしまうのだ。だってそもそも、わたしに嫉妬する権利なんてない。そもそも、立っているところや積み重ねてきたものが、違うのだ。

それから、もうひとつは、「社会は公平ではいこと」も頭の片隅に入れておくことだと思う。私たちはなんでだか、「同じ努力をしたら、同じように報われて当たり前」みたいに思っちゃうことがある。それもそれで、違う気がする。そもそも「同じ努力」がないのは前述の通りだけれど、その上で、それに対してどんな評価がされるとかどんな結果が起こるかもわからない。ほんのちょっとのタイミングとか流れみたいなもので変わっちゃったりする。

そうゆう自分の力で何にもできないことよりも、「自分にできる目の前のこと」に集中したりするしか、できることはないんだよね。不公平であるということもわかった上で、それも受け入れて、やっていくしかないんだよね。

そんなふうに考えると、だれかなにかいいことがあったときには、素直に「自分もがんばろう」と思えるんだ。目の前のことを積み重ねていったり、できることをコツコツやることで、ひらけてくるものがあるように思えるから。そんなふうに、ポジティブに変換できるエネルギーのほうが、ずっとずっと良いのではないでしょうか。

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