美学K

私は中学生の頃に太宰治の人間失格と三島由紀夫の金閣寺を読み、衝撃を受けた。しかし、その衝撃の本質は当時の私は全くわからなかった。にも関わらず、弱13歳の私を大きく魅了したことは紛れもない事実である。その後、私は自称進の高校に入学した。多少自分のアタマの理解度も中学の頃よりかはマシになってきたので、太宰や三島以外の文学も手当たり次第読んだ。日本の近代文学はほぼ読み尽くしたので、海外の近代文学にも手を出した。文学への考察や理解を捗らせたかったので、大学教授の書いた論文や著作なども照らし併せて読んだ。その中で、知ったことだが、太宰治と三島由紀夫の美学はどうやら破滅の美であるらしい。私が13歳の時に感じた衝撃は、破滅の美であり、そんな圧倒的な力の前に、13の私はただ平伏していたのである。文学はページを捲る度に、人間という生き物の触れたこともない心情の動きを、文字のみで強く伝えてくれた。10代の自分という生きてるのか死んでるのかよくわからない屍のような人間に感性というものを教えてくれた。
私の通っていた自称進で四年生大学進学者以外は非人同然の扱いであったため、自ずと自分はバカなのに関わらず、周りに流され、大学に進学するつもりで漠然といた。既に高校生の時から、自分が普通に就職して普通に会社に勤められる訳がないと悟っていたので、逃げ道半分好きなこと半分で、将来の夢を大学教授に設定した。太宰治の研究をしたかった。そのためには文学部に受からなくてはいけない。それに大学の学問を生業とした研究職になるなら、学部の時からある程度名の知れた大学じゃないと話にならない。ゆえに、最低でもマーチには行きたかった。話は長くなったが、私の原点は文学だ。(あと、ガロ系漫画。こちらは割愛する。)その中でも、破滅の美。太宰、三島に限らず、私の好きな作品はほぼ全てと言っていいほど破滅で幕を閉じる。要はバッドエンドだ。最初から最後までハッピーでキラキラキレイなものなんて、最初から明らかに人為的に手が入ってるようでチン萎えする。現実はもっともっともっと不条理で神様すらも手を差し伸べてくれないものだったはずだからこそ、何か違うな感があってどうも入り込めない。綺麗過ぎる川に魚は住めない。誰が誰のために作ったのか知らんけど、あまりに最初から最後まで他人から見られる対象のためだけに作られ存在するような美は趣がない。他人に消費されるために美はあるのではない。もがき、絶望し、それでも足掻き、それでもどうにもならない理不尽なこの世界に屈して、時には脆い心との葛藤に負けてしまったり、またはそれでも不安定な命を必死に燃やして生きようとしている姿や激動こそ、美しいと思わないだろうか。美は自身を強く伝えるためにあるのだ。

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