今、幸せですけれども、

私はどうしようもなつ辛い時は、酒を飲む。家にいる時はブラックニッカのロックを、外ならコンビニで手軽に手に入るストゼロを、ひたすら飲む。これらの酒が好きなわけではない。ただ、安くて、手には入りやすく、手っ取り早く酔えるからだ。(ちなみに味が好きなのはiwハーパーであるが、貧民には少々お高い。一番好きなのはバーボンで、2番目はウイスキーだ。)現実の世界から逃げるように、安堵の時間を求める。一定期間ではあるが現実から目を背けると、なんだかんだどうでもよくなる。結果的に、よし明日も頑張ろうという気持ちに繋がる。そして、今日気づいたことであるが、どうしようもなく幸せな時も、酒が飲みたくなるらしい。幸せだと、私の幸せは何から成り立っているのだろうとか、その幸せの成り立ちから終焉までを考えてしまう。様々な仮説を立てて、色々なパターンを考えてみても、私のこの幸せは確実に永遠ではないという結論は自明なのである。玉パンツで大陰唇を晒してもファン0だった私も、ツイッターがバズったこともあって、ごく少数ではあるがファンの人も徐々にできてきた。ファンの人の中には毎週会いにきてくれる人もできた。note関連なら、noteを見て遠方から会いにきてくれる女の子ができたし(ちなみに今週も会えるとのことで、正直凄く嬉しい。)、会えなくなっても嫌いになった訳ではないからと言って、会えなくても引き続き郵送チェキやPinterestで気持ちを伝えてくれたnote読者もいる。私、こんな幸せでいいのだろうか?私、何も提供できていないけれど、大丈夫だろうか?今、大変有り難いことに少なからずではあるが黒世れこに対する需要が増えてきている。けれど、供給が何もできていない。他の人は、わかりやすく愛想がいいとか、愛嬌があるとか、可愛いとか、話が上手いとか、パフォーマンスが上手いとか、あぁこの子と会うことやこの子を応援することに価値があるんだと、第三者から見てもわかるほどに彼女達は優れている。私はどうだ。私には果たしてそれらに該当するものや代わりになるような価値があるのだろうか。私はそれらを自覚できてない。自覚できていないのいうか、そもそもないのかもしれない。自分で確証できるものがないから、自身の供給がそもそもできているかさえ怪しくなってくる。このまま供給ができてないままだと、いつかは飽きられてしまうのでは?なくなってしまうのでは?という考えに辿り着く。今の幸せよりも未来の起きるかわからない絶望に引っ張られそうになる。私は1人が好きだと公言しているが、もしかしたら半分はその通りで、半分は自分への言い訳なのかもしれない。友達を作っても、いなくなるぐらいなら、分かり合えないぐらいなら、いなくていい。いつからだろうか、もう何年も友達を作ろうとしなくなったが、もしかしたら失う時が怖いからかもしれない。私のことを好きだと言ってくれる人が出てきて、今すごく幸せで、凄く嬉しい。こんなに私幸せでいいのだろうかというぐらい幸せだ。それぐらい幸せで嬉しいけれど、どうしようもなく酒を飲みたくなったのは何故だろう。


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