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教え子の「結婚式」「同窓会」に一生出ない理由=人生は「一期一会」

今年の4月に異動があり、行政職員から学校現場、しかも管理職になった(もともと行政職員の段階で管理職待遇だったのだが)。
巷で言われていた通り、確かに学校の管理職は忙しい。「管理」というものにいまいちイメージが湧かなかったが、特に学校施設と先生方に関する業務が予想以上に多い。しかしそれを承知でなっており、行政職員の経験と重なるところも多かったので、今のところは予想よりはスムーズに仕事ができている。学校というところは突発的にいろいろ起こるところだから、仮に今後何か起こっても、できるだけ動じずに、冷静に、しかし結果としてかかわる人が満足できるような対応を心がけたいと思う。
 
  今まで、卒業生を4回+未到達1回(2年担任から3年担任時に異動してしまった…)送り出してきたが、最後の卒業生を送り出したころから強く心の中に思うことがある。
「(仮に)結婚式に呼ばれても、できる限りのお祝いを事前に送って、当日は欠席する」「(仮に)同窓会に恩師(これも死語だし、そもそも恩師というのは私にとってはおこがましいが)として出席することはしない(お祝いはもちろん送る)」の2点である。
 
 決して教え子が嫌いなわけではない。むしろ在学中はともに駆け抜けた自負があるし、これまでもクラスの私的な集まりにも複数呼んでもらった。
本当にありがたかった。

しかし、それでも彼ら彼女らに対面で会うことは2度とないだろう。

 教え子は、年齢を重ねるとともに、人生の色々なステージに立っている。仕事、家庭、子育て、転勤…。その中で、当然「価値観」も変わってくるだろう。
 それでも結婚式や同窓会で彼ら彼女らが会えば、「あの頃」に一時的に戻ることができる。結婚式なら、当事者を祝うと同時に懐かしい話に花が咲くこともあるだろう。
 
 しかし、そこには「元担任」は不要だと思う。なぜなら、現役時代も関係は「担任」と「生徒」であり、「友人」ではなかったからだ(最近は「友人」扱いされている担任もいるということだが、そこだけは一線を引かねばならないとは思う)。
 だから、結婚式や同窓会に出ても「違和感」が残るし、彼ら彼女らも気を遣うだろう。
「おめでとう、お幸せに」「これからも、今日のようなつながりを大事にしながらも、みんなそれぞれのところでがんばれよ」という想いを「お祝い品」に託し、私は私の今の人生を精一杯生きようと思う。

ふと、どこかで「あいつら頑張っているだろうな」と思い出すだけでいい。

教師というものは、そのような存在で十分だ。

 

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