信長の結婚と父の死 File002 (4083文字)

信長と帰蝶・政略結婚の周辺

 織田信長の父・信秀は、自国である尾張と隣接する三河と美濃の両国と長い間敵対しているのは、いかにも不利である、と考えた。

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 そこで案出されたのが、美濃の斎藤道三との和睦・同盟である。
道三にとっても、信秀と和解することには、大きな意味があつた。
これまで何度も何度も戦ってきた稲葉山城(岐阜城)の麓で、いったんは攻め込んできた信秀軍を撃退できたが、なんといっても守護家の土岐頼芸(よりのり)が尾張へ亡命している。いいかえれば、美濃守護の保護者である信秀には、美濃攻撃の名分、口実があたえられている、ということである。

 道三はやむなく守護所であった大桑城(おおがじょう=金鶏山・岐阜県山県市)へ土岐頼芸が帰還することを認めて、講和することにした。
そして、家老の1人である平手政秀が美濃まで出向いて、信秀の嫡子・信長と、道三の娘・帰蝶との婚約を整えた。

帰蝶2

 帰蝶の母・小見の方は美濃の明智城(長山城・岐阜県可児市瀬田長山)の城主・明智光継(みつつぐ)の長女(三女?)で、明智光秀は甥であった。
また、帰蝶は、かつて美濃守護であった土岐頼純(よりずみ)に12歳で嫁いでいた。

 土岐頼純とは、土岐頼芸の兄・頼武の子である。
頼芸と頼武は、守護職をめぐって激しい抗争を続けた。
道三は兄弟の間で巧妙に立ち回った。

 ところが、頼純は天文16年(1547)11月17日に、24歳で急死してしまった。あるいは、道三が大桑城を攻めたとき、逃げる頼純を長良川の河渡の渡しで殺してしまったともいわれる(『江濃記』)。

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