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「概説 静岡県史」のテキスト版の掲載を始めます。

 Radiotalkという無料でラジオができる音声配信サービスに、「概説 静岡県史」というタイトルで「静岡県史」の近代からざっくりと概説的にまとめた内容を、昨年から週一で配信しています。静岡県が作成した『静岡県史』は、原始古代から近現代までをまとめていますが、冊数で30巻以上もあるので、簡単に静岡県の歴史がわかるようなものがあったらいいなぁと思い、ラジオならば聞き流せるし、いいんじゃないかと始めたわけです。それが昨日10月9日で50回を数えました。ただ音声だけですと、人名や地名、歴史用語など、どうしても分かりにくいものがあるので、50回目を達成したのを機に、テキスト版を掲載することにしました。Radiotalkでの「概説 静岡県史」の読み原稿ですので、内容はRadiotalkで話しているものと同じです。
 なお、「概説 静岡県史」はラジオでざっくりと静岡県の歴史を語ろうというコンセプトですので、内容によってはあえて簡略化したり、逆に説明的なものになっていたりする部分があります。

 まずは第1回(これはオリエンテーション的なものですが)と、第2回(ここから静岡県の近代の話)を掲載することにします。

「概説 静岡県史」

第1回:「概説 静岡県史」について

 「静岡県史」と聞いても、「しずおか」はともかく、「ケンシ」の文字が頭に浮かばないかもしれません。「ケンシ」は「県の歴史」、「静岡県」の「歴史」ということです。例えば、お隣「神奈川県」ならば、「神奈川県史」といいますし、これが「静岡市」の歴史ならば、「静岡市史」、町や村ならば「何とかちょうし」や「何とかそんし」といいます。
 ということで、この番組は静岡県の歴史について、概説、つまりざっくりと、1回1テーマで、お話していこうというものです。
 ただし、学校の歴史の授業のような感じなのではなく、たぶん学校の授業では、先生の話を聞いていても、時々、言葉がわからない、先ほどの「県史」のように、一度聞いただけでは文字が頭に浮かばなかったり、教科書を見ても何のことなのかよくわからなかったりすることがあるのではないかと思うのですが、そのようなポイントに触れながら、おおおまかに静岡県の歴史について、語っていこうと思っています。
 現在の静岡県は、1876年(明治9年)8月21日に、当時の静岡県と足柄県の一部であった伊豆、そして浜松県が合併して、現在の静岡県が成立しました。現在8月21日は「県民の日」として、いろいろな行事が行われているのはこれにちなんでいるのですが、学生にとっては夏休み中ですし、社会人にとってはお盆休み明けなので、あまりピンとこないかもしれませんね。
 古代の律令制度に基づいて設置された国、難しく言うと令制国(りょうせいこく)と言いますが、それで言えば、伊豆国、駿河国、遠江国の3国に相当する範囲で、直線距離で東西約155キロメートル、南北約118キロメートルあり、面積は全国で13番目の広さを持つ大きな県です。また、大きな川が何本もあり、起伏にとんだ地形をしていて、現在でも、東部、中部、西部と3つの地域にわけて呼んでいますね。場合によって東部は、伊豆を分けて伊豆地方と呼ぶこともあります。また、西部は「遠州」という言い方をすることがあります。冬の強い季節風を「遠州のからっかぜ」などと言ったりしますが、これは令制国を中国風に通称して「州」と呼ぶことから来ています。国名の1文字を取って、遠州は「遠江国」の「遠い」の字を取って「遠州」です。他にも例えばお隣山梨県は「甲斐国」ですので「甲州」、長野県は「信濃国」で「信州」です。九州地方も「豊前(ぶぜん)、豊後(ぶんご)、筑前(ちくぜん)、筑後(ちくご)、肥前(ひぜん)、肥後(ひご)、日向(ひゅうが)、大隅(おおすみ)、薩摩(さつま)」の9国なので、九州です。
 駿河や伊豆も歴史的には「駿州(すんしゅう)」「豆州(ずしゅう)」と呼ばれていました。伊豆は「ず」の方の1文字を取って呼んでいましたから、必ずしも頭の1文字を取るということではないわけです。
 このように、これから静岡県の歴史を語っていくわけですが、歴史を語る場合難しいのが時代区分です。一般的には、原始、古代、中世、近世、近代、現代と言っています。もう少し細かく言うと、原始は考古学上の時代区分に従って、旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代と区分しています。考古学とは、簡単に言えば、まだ文字で書かれた文献史料が無い古い時代を、主に地下に埋没している土器や建物跡などを発掘して得られた考古史料をもとに研究する学問です。時折ニュースなどでも遺跡の発掘調査で出土した遺物や遺構が話題になることがありますね。遺物と言うのは土器や石器なども昔の人たちが使った道具、遺構とは建物の柱跡など地面に残っている構築物の痕跡のことで、それらがある場所を遺跡と呼びます。厳密に言えば、古墳時代になると、文字史料が出土することもありますが、主にモノを通して過去の人々の生活を明らかにしようとするわけです。ですから、考古学は古墳時代以降の古代、中世、近世、近代も研究対象になるわけです。歴史学はもともと文字による文献史料をもとに研究が行われるのがメインだったわけですが、文献史料だけではわからないことも多いわけで、近年では考古学がそれを補う重要な役割を果たしています。
 静岡県には『静岡県史』と言う、全部で35巻にも及ぶ静岡県の歴史をまとめた本が刊行されていますが、そのうちの何冊かは考古学の学問成果による研究がまとめられています。
 当然、この「概説 静岡県史」の番組も、県が刊行したこの『静岡県史』を参考にしています。静岡県内ならば、県立中央図書館をはじめ、市町の図書館で読むことができますので、興味があれば、見てみてください。
 時代区分の話にもどって、古墳時代以降は文献史料が出てくるようになるので、歴史学で便宜的に用いられている呼び方をします。基本的には政治の中心地の地名を取って時代の呼び方になります。古墳時代の次、ここから古代ですが飛鳥時代、これは奈良県の明日香村が政治の中心地だったからこう呼びます。教科書に出てくる話ですと推古天皇とか蘇我氏とか。次が奈良時代、平安時代。平安は京都に置かれた都が平安京であることから。次に中世の鎌倉時代、室町時代、次は安土桃山時代ですが、これが中世か近世か、だいたいは安土桃山時代から近世と考えるのが一般的です。次の江戸時代と合わせて近世と考えます。そして近代は明治時代から、現代の始まりはこれもいろいろ考え方があってなかなかきっちり分けられないので、明治時代以降を近現代と呼ぶことも多いです。一般的には、第二次世界大戦、アジア・太平洋戦争後を現代と考えることが多いかもしれません。
 ただ、先ほども言ったように、時代区分はいろいろ複雑で、細かく考えると飛鳥時代は古墳時代末期であったり、室町時代前期を南北朝時代、室町時代後期を戦国時代と呼んだり、江戸時代後期を幕末と呼ぶこともありますよね。
 また、文化面に注目して、時代を分けたりすることもありますから、歴史の教科書にもいろいろな言い方が出てきて、よくわからないとなるわけです。
 今後、この番組でも無意識にこのような呼び方をしてしまうことがあるかもわかりませんが、この番組はそもそも静岡県の歴史を、わかりやすく話すことを目的としていますので、その点は心がけたいと思っています。
 さて、次回からは具体的に静岡県の歴史の話をしていきます。「静岡県史」ということなので、まずはこの静岡県域が静岡県となる近代から取り扱うことにしようと思います。学校でも近代以降に重点をおくようになっているようですし、何よりも私カワカミの専門が近代ということもあります。


第2回:「静岡県における近代の始まり-静岡藩の成立」

 今回は、前回予告しましたように、静岡県の近代ということで、「静岡県における近代の始まり-静岡藩の成立」というテーマでお話します。
 静岡県における近代は、静岡藩の成立から始まります。
 1867年(慶応3年)10月の大政奉還により江戸幕府が消滅し、一大名となった徳川家は、明治新政府により1868年(慶応4年)閏4月29日に、第15代徳川慶喜に代わり、当時6歳だった田安亀之助が徳川宗家の相続を許され、第16代当主となりました。当時は数え年ですので亀之助は満5歳、今ですと幼稚園の年中さんですかね。
 閏4月というのは、「うるうづき」といって、当時は太陰太陽暦、つまり月の満ち欠けを1か月とする暦で、現在使用されている太陽暦と比べて、1年間で約11日ほど短いものでしたので、そのまま太陰暦を使い続けると実際の季節とずれてきてしまいますよね。このずれは1年で約11日ですから3年で約33日ほどになりだいたい1か月分になりますので、3年に1度1か月を加えて13か月として実際の季節とのずれを調節するわけです。この加えられた月のことを「うるうづき」と呼び、閏4月ですと、1月、2月、3月、4月、閏4月、5月ということになるわけです。ちなみに、この後、1872年(明治5年)に太陰太陽暦から太陽暦に切り替わったので、1871年(明治3年)が閏月のある最後の年となりました。
 徳川家16代目となった徳川亀之助は名を家達(いえさと)と改め、5月24日に駿河、遠江、陸奥などに70万石を与えられ、駿河府中藩が成立します。ただし、陸奥、つまり東北地方はこの時期にはまだ明治新政府の支配下に入っていません。4月11日の江戸城無血開城後、戊辰戦争は北関東に移っていきます。5月には東北及び北越諸藩が奥羽越列藩同盟を結成し、新政府との対決姿勢をとるに至るので、徳川宗家に引き渡すことなど当然できませんから、9月4日には三河に変更されます。
 「藩(はん)」の言い方は、江戸時代の各大名領地を呼ぶ言い方として一般的ですが、実際に江戸時代には「○○藩」という呼び方は公称、おおやけの呼び方ではありません。儒学者が江戸時代の支配機構を指す言葉として、中国の制度になぞらえて用いた言葉だったようです。では実際はどう呼んでいたのか、実はあまり詳しくはわかっていないのですが、公称、おおやけの呼び方になったのは明治元年の政体書による「府藩県三治制(ふはんけんさんじせい)」によって採用され、藩主のいる場所の地名をもって「○○藩」という名称が初めて正式な行政区分名となりました。
 ですから、徳川家達のいる駿河府中の名をもって、駿河府中藩になったのです。なお、家達は8月に駿河府中にやってきます。記録によると、江戸からの道すがら、乗っている駕籠からチョイチョイ顔を出して、「あれは何、これは何」とお伴のものに聞いていたそうです。今でも旅行の際などに幼稚園くらいの子どもならば、好奇心旺盛ですので、いろいろと質問するでしょうから同じですね。ちなみに前将軍の慶喜も7月に謹慎していた水戸から駿河府中の宝台院(ほうだいいん)に移ってきます。
 ここで、駿河府中って何ということですね。「府中(ふちゅう)」とは、国府のある場所、国府とは国の役所のことで、それがある場所が「駿河国府中」、それが略されて「駿河府中」、そして「駿府(すんぷ)」と呼ばれるわけです。今でも「駿府城(すんぷじょう)公園」があります。類例としては、お隣山梨県の県庁所在地は甲府市ですが、この「甲府(こうふ)」がそうです。前回お話しましたが山梨県は「甲斐国(かいのくに)」です。その国府があったのが「甲斐府中」、言い方をかえると「甲州の府中」、つまり「甲府」となるいうことです。ただ、江戸時代では単に「府中」と言えば、駿府のことを指しました。
 それが、明治になり、徳川家が駿河府中藩となると、「府中(ふちゅう)」が天皇や新政府に対し「不忠(不思議のふに、中に心のただし)」、忠義に反するの意味に通じるのでよろしくないとのことから「静岡」に改名されました。静岡に改名されたいきさつについては、静岡市葵区役所前、駿府町奉行所跡の石碑の隣に「静岡の由来」という石碑がありますので、そちらも参考になるかと思いますが、これが1869年、明治2年の版籍奉還の際のこととされていますので、これ以降「駿河府中藩」は「静岡藩」ということになりますが、この後は便宜上、明治元年の時の話でも、「静岡藩」と呼ぶことにします。
 なお、この版籍奉還というのは、全国の藩が所有していた土地、これが版、と人民、これが籍、戸籍の籍ですね、これを朝廷に返還して、藩主は知藩事に任命されます。これが6月17日で、同日華族制度が創設されますが、これは別の回でお話します。家達も版籍奉還によって、静岡藩知事に任じられます。
 話しがかなり進んでしまいましたが、明治元年から2年にかけての時期は、他にも様々なことがあります。具体的には、幕府が無くなってしまったことにより、幕府に仕えていた者たちは旧幕臣ということになり、生活の基盤を失ってしまったわけです。その後の身の振り方を考えなければならなくなったわけですが、徳川宗家が駿河に移り、静岡藩が成立したことにより、徳川家に付き従って、静岡へ移住しようとする者たちがいました。そこで次回は、この旧幕臣たちの問題についてお話していこうと思います。旧幕臣たちの静岡への移住問題は、静岡藩にとっては、藩の体制を整える過程においても重要な課題でしたし、静岡に大きな影響を与えることでしたので、このことに触れないわけにはいきません。ということで、次回は「旧幕臣の静岡移住とその影響」というテーマでお話します。



 


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