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「概説 静岡県史」第65回、第66回のテキストを掲載します。

 通常業務も何とか回るようになり、何か新しいことをやりたくなってきました。まぁ、今現在の仕事を改善する必要があるのですが、それをするためにも少し勉強しなければならないので、新しい試みをはじめる必要があります。実際にやり始めればどんどん進められるのですが、それを取り組みための準備というか、計画をたてるのに時間がかかります。あれやこれやメモを取ったり、ネットで調べ物をしたりしながら考えているのですが、あっという間に時間だけが経ってしまい、なかなかまとまりません。ただ常にある案件について考えて続けていると、突然ひらめく瞬間があるので(まぁ、たいしたひらめきではありませんが)、自分にとってはこれも必要な時間なのです。

 それでは、「概説 静岡県史」第65回、第66回のテキストを掲載します。

第65回:「新聞の発達と地方文化の進展」

 今回は、「新聞の発達と地方文化の進展」というテーマでお話します。
 帝政党系の機関紙であった「静岡新聞」は、立憲帝政党の解党により、1884年(明治17年)2月10日、「静岡大務(たいむ)新聞」と改題し、改進党系の新聞として静岡大務新聞社から創刊されます。「大務」はロンドン・タイムズに由来すると言われています。翌年5月、「函右日報」を合併し、80年代後半には静岡県の最有力紙となりました。しかし、1890年(明治23年)に内紛が生じ、91年10月20日、社長井上彦左衛門、社主山梨易司(やすし)により「静岡民友新聞」が創刊されます。社長の井上が改進党所属の衆議院議員であったことから、改進党系の機関紙となります。
 一方、1895年(明治28年)1月4日、「静岡新報」が創刊されます。これは沼津で発刊していた自由党系の「岳南新聞」を改題して創刊された「東海公論」を改題したもので、社長は自由党の県会議員大橋頼模であったため、自由党の機関紙となります。これにより、二大新聞時代が始まります。「静岡民友新聞」はのちに進歩党、憲政本党、民政党と反政友会系の機関紙、「静岡新報」はのちに政友会の機関紙となります。
 日清戦争を契機に新聞の発行部数は飛躍的に増加します。「静岡民友新聞」は92年に2,700部前後の発行部数でしたが、約9,000部になっています。戦況報道に県民の関心が高まった結果ですが、これにより政党機関紙的側面を残しながら政論新聞的特色は後退し、報道記事の比重が高まります。教育の普及により購読者層が拡大するとともに、購読者の多様な要求にも応えざるを得なくなり、社会面の充実、経済記事、小説、文化欄など、多面的な紙面作りが要求されるようになります。その中でも新聞小説は、「読売新聞」に97年(明治30年)1月1日から尾崎紅葉の「金色夜叉(こんじきやしゃ)」が掲載され、98年11月29日から「国民新聞」に徳富蘆花の「不如帰(ほととぎす)」が掲載されるなど、近代文学の発展に寄与しました。
 「静岡民友新聞」では、富田一筆庵(いっぴつあん)が小説欄を担当していました。本名は一郎、嘉永5年(1852年)江戸根岸生まれで仮名垣魯文門下、「やまと新聞」、「万朝報」などで記者を経験し、94年に「静岡民友新聞」に招かれました。富田自ら小説を執筆しており、10年間で中・長編合わせて22編も書いています。社会小説を志向する通俗小説が多いですが、時代小説も書いています。当初は社内で執筆者をまかなう方針が採られ、富田のほか、1900年(明治33年)に入社した小山枯紫(こさい)、07年(明治40年)に入社した萩田梢村(しょうそん)などが書いています。しかし、07年1月1日付けの新聞に紙面刷新の広告が出て、人気作家徳田秋声(しゅうせい)の「華族の娘」の連載が始まります。その後、柳川春葉(しゅんよう)、広津柳浪(りゅうろう)など、自然主義の作家が登場します。その最たるものは14年(大正3年)の中村孤月(こげつ)の「酒場」で、英文学者として知られた孤月はこの時期静岡に滞在していました。「酒場」はフランスの自然主義文学の定義者であるエミール・ゾラの代表作「居酒屋」の翻訳です。しかし、下層社会の生活を赤裸々に描くこの作品は読者に不評で、78回で中断となります。このように新聞は新しい文学思潮を根付かせようと、より新しい作品を提供しようと努力しており、それは地方から中央への新しい文化の発信となりました。
 静岡師範学校の寄宿舎では、陸羯南主筆の新聞「日本」がよく読まれていました。当時21歳、3年生の加藤孫平は雪腸(せっちょう)と号して「静岡民友新聞」の俳句欄で活躍していました。正岡子規が「日本」紙上俳句改革運動を展開すると、1896年(明治29年)6月15日、子規の影響を受けた雪腸ら7人の2、3年生が静岡県尋常師範学校のキャンパスに集まり、「本邦古来の韻文を研究し、趣味的情操の発達を期し、以て文学的俳句の拡張を計り、新知識を交換し、交情を厚くするにあり」との会規により、新声会を発足させます。しかし、前年東京で尾崎紅葉、戸川残花(ざんか)、富士郡加島村出身の角田竹冷(ちくれい)らが組織した「秋声会」と似ているため、「芙蓉(ふよう)会」と改名します。「静岡民友新聞」俳句欄の加藤雪腸と静岡民友新聞記者藤田紫亭(してい)、和歌の雑誌『古能美知(このみち)』に属した関縹雨(ひょうう)、『静嵐』の西ヶ谷桂影(けいえい)らを幹事とし、当初は自前の機関紙を持つほどの力が無かったので、それらの紙誌で活動し、併せて「日本」への投稿に励みます。雪腸は正岡子規に入門し、98年(明治31年)春に師範学校を卒業し、郷里の榛原郡川崎町、現在牧之原市の小学校教諭となりますが、10月に創刊した『平民文学』誌上で、新派を掲げ俳論を展開します。同じく伊豆に帰った関縹雨や浜松の渥美渓月(けいげつ)ら芙蓉会のメンバーも『平民文学』をより所としました。
 『平民文学』は月刊、A4判、活版2段組、30ページ以上の体裁で、発行所は小笠郡西方村堀之内21番地、現在菊川市の平民文学会です。主宰は久保田桂川、本名は次郎吉、後の俳号は九品太(くほんた)で、当時中学校を卒業したばかりの17歳でした。98年12月27日の3号で「汝は汝の月日の下に我が俳句界の為に、大にしては日本派俳句の大塊といふべきほととぎすを東京に起し、少にしては新旧両派の運命を決する檻上(かんじょう)たる我会を東遠の一隅に生めり」と書き、文学運動として『平民文学』を発刊した意図を明確にしています。『平民文学』は99年(明治32年)4月20日の6号から『芙蓉』と改題します。雪腸が改題を強く主張し、主宰の桂川がこれを受け入れた形でした。99年6月25日の8号までは従来どおり発行されますが、自らの主導権を持つ雑誌を必要としていた雪腸は、99年8月15日発行の『芙蓉』2巻1号を自らの仮寓先である庵原郡庵原村、旧清水市、現在静岡市の一乗寺に発行所を移して発行します。新版『芙蓉』は菊判44ページで、「文学論(各種)、文学者伝記、紀行、新体詩、和歌、俳句、俳論、批判、俳諧をはじめ文学趣味あるものは掲載せむ」と投稿規定にあり、俳況や雑報欄などすべて子規の『ホトトギス』にならい、名簿には150人以上が登録されていましたが、1年あまりで廃刊となりました。
 『芙蓉』で編集校正を行っていた、当時25歳の小山枯紫は、「静岡民友新聞」の富田一筆庵の励ましを得て、1901年(明治34年)初夏、文学サークル「薔薇(そうび)会」を発起します。第1回集会は7月7日、静岡市丸山町流井(りゅうせい)園で開催し、9月10日に同人誌『さうび』を発刊しました。
 1904年(明治37年)、雪腸は県立浜松中学校に赴任し、浜松に居を構えます。07年(明治40年)正月、颯々会という句会を結成して、俳句運動を行います。後に短歌も作るにようになり、13年(大正2年)には「曠野(あらの)社」を創立、15年には雑誌『第三者』を創刊します。24年(大正13年)再び俳句へ戻り、翌年不定型俳句の研究を始め、「曠野句会」をおこし、「自由律俳句」を提唱するなど、浜松の文化の向上に大きく貢献しました。
 次回は、「大正デモクラシーの本格化と県政刷新運動」というテーマでお話しようと思います。

第66回:「大正デモクラシーの本格化と県政刷新運動」

 今回は、「大正デモクラシーの本格化と県政刷新運動」というテーマでお話します。
 日露戦後から新たな展開を見せた民衆運動は、大正期に入ると一層の広がりと盛り上がりを見せ、様々な階層の要求が噴出し、従来前提とされた諸制度の改変を迫りました。国際的情勢にも影響を受けながら大きなうねりとなり、実際に民主主義的改革を含む統治機構の改革が実現します。このような運動とそれを支えた思潮を大正デモクラシーと呼び、大正期とその前後数年を含む時期を大正デモクラシー期といいます。
 1912年(大正元年)12月、第2次西園寺内閣倒閣後に展開された第一次護憲運動は、大正デモクラシーの本格化を告げるものであり、営業税、織物消費税、通行税のいわゆる三悪税、特に営業税の廃減税運動が、憲政擁護運動の重要な構成要素となります。国税営業税については、1897年(明治30年)の施行時から実業家層の批判の的となり、県下でも静岡や浜松の商業会議所が改正の請願をするなどの運動が間欠的に起こっていました。しかし、ここにきて運動は藩閥勢力の非立憲的行動への批判、軍閥の強引な軍拡推進への批判と結びつき、大正デモクラシーの一翼を担うことになりました。
 1914年(大正3年)1月から2月にかけて、県下で大小の集会が頻繁に開かれ、特に2月3日の静岡商業会議所主催の廃税大会には1,000人が参加して盛り上がりを見せます。2月16、17日に衆議院で諸悪税廃止の法案が否決されると、貴族院への請願運動が展開されます。静岡県の請願件数は全国132件中17件で第1位、署名者数は1万1,988のうち1,439で東京、神奈川に次いで第3位です。このほか、新潟、千葉、北海道、熊本、秋田などの署名者数も相当数に上っており、この運動が地方に支えられていたことがわかります。結局、営業税の廃止は政友会の反対で実現しませんでしたが、その後も粘り強い運動が続くことになります。
 1914年(大正3年)8月13日から30日まで大雨と台風により県下に大きな被害が出ました。特に静岡市は、安倍川の堤防が決壊し、本瀬が市内を流れるという深刻な事態となりました。10月の静岡市会では、応急復旧の追加予算の決定とともに、安倍川築堤を堅固なものとするため、県当局、県会に働きかける建議書が採択され、実行委員が選出されます。
 こうした動きを受けて県当局は、災害復旧総額を97万9,000円と見積もり、うち21万円を当初予算から支出し、残り75万余円を追加予算として計上し、11月の通常県会に提出します。追加予算のうち安倍川改修にかかわる治水堤防費は、経常部約23万6,000円、臨時部約4万5,000円の合計28万1,000円で約37%を占めていました。これに対して県会多数派である政友会は、富士川、大井川、天竜川の改修費は原案を認める一方で、安倍川については減額とします。安倍郡選出で政友会の岩崎彦雄(ひこお)や静岡市選出で中立の成瀬駒次郎らの地元議員は激しく反発しますが、結局は削減の多数派案が通過しますが、安倍川堤防改修の重要性を強く意識していた湯浅倉平知事は、原案執行で安倍川堤防を完成させます。1899年9月以来、県会では政友会の多数支配が続き、非政友の根拠であった静岡市や安倍郡はことあるごとに差別扱いを受けており、今回の安倍川改修問題もそうでしたが、この問題は多数派の横暴を糾弾する県議会外での運動の引き金となりました。
 1914年(大正3年)12月、静岡市で結成された静岡青年同盟団は、静岡市選出で中立の県会議員中村嘉十が、多数派の削減案に賛成したことに反発し、議員辞職の勧告文を突きつけ責任を追及します。12月13日には県政刷新会発起人会が開かれ、その後静岡青年愛志会、大隈伯後援会、商工協会静岡支部なども運動に加わります。このような中で行われた第12回衆議院議員選挙では、従来7議席をしめた政友会が2議席となり、立憲同志会4、中正会2、立憲国民党1、中立1で、非政友派の圧勝となりました。選挙後の5月4日に県政刷新会の第1回協議会が静岡市で開催され、政友会の「横暴」を糾弾し、県会の刷新を期す決議が採択されます。15年9月24日に行われた県会議員選挙では、政友会は27から21に減少し、非政友は同志会9、国民党2、中立3の14から同志会16、国民党1、中立4の21に増加し、結束して県会で県政刷新会を組織します。16年の通常県会では、国民党の衆議院議員高柳覚太郎が、磐田郡選手で同志会の乗松(のりまつ)弥平、浜名郡選出で政友会の鈴木貞一郎、永井銀次郎、浜名郡選出で国民党の杉浦宗平を組織してキャスティング・ボードを握り、翌年も同様に動きます。これに対し、政友会と、16年11月8日に静岡支部が結成された憲政会は検討の結果、1.政友会選定の議長候補に県政刷新会も投票する、2.参事会員は政友会から4人、県政刷新会から3人を選出する、3.議案の審議について、両派から5人ずつ出し、政友会は委員長、県政刷新会は理事を1人出すという妥協案が成立します。この妥協案は、多数派が役員を独占し、議会運営から少数派を締め出すという従来の手法が通用しなくなっていることを示しています。
 1914年(大正3年)8月に第一次世界大戦が勃発し、一時恐慌状態となりますが、翌年には好況となり、インフレ傾向の中で18年(大正7年)になると、米価をはじめとして消費物価が高騰します。第一次世界大戦の好景気が都市部の人口増加、工場労働者の増加をもたらし、また養蚕などの収入増加により農家でもコメを主食とする生活に変化することで、コメの需要が増大した一方で、都市への人口流出などによりコメの生産は伸び悩み、大戦の影響によるコメの輸入の減少も重なったことが米価高騰の原因です。米価高騰により地主や商人はコメを米穀投機へ回すようになり、売り惜しみや買い占めが発生します。さらに、シベリア出兵宣言により、ますますその状況が加速しました。このような中で、一般庶民らは生活の困窮を恣意行動で訴え、暴動という形で怒りを爆発させたのが、米騒動です。従来は7月に富山県魚津町の漁民の妻たちにより米騒動が始まったとする説が定説でしたが、近年の研究により、少なくとも「漁村から始まったのではなく」、「富山湾沿岸地帯」から始まったのであり、その主体は「海運・荷役労働者の家族」などであるとされます。静岡県では8月10日小笠郡大池村、現在掛川市から始まり全県に波及し、13~18日ごろがピークとなりました。
 米騒動を経て11月に開かれた通常県会では、米騒動を必然化した社会的要因を強く意識した議論が展開されます。県政担当層にとって「生活問題」が、「中産階級」や「一般県民」、「労働者」の問題であるとの認識に転換したきっかけが米騒動であり、組織化が進みつつあった労働運動、農民運動でした。これらの運動は、既存の統治構造を深部から揺り動かす力であり、大正デモクラシーの基底をなすものです。
 次回は、「普選運動の展開」というテーマでお話しようと思います。

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