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「概説 静岡県史」第133回:「戦時工業再編と統制」

 今日は、「歴史は、研究者や教師、生徒・学生だけがつくるものではありません。本来、誰もが過去について調べ、未来に記憶をつないでいく担い手です。歴史好きの人も、これから歴史に触れてみたい人も、歴史研究者も、それぞれに「歴史する」主体なのです。多くの人が一緒になって、楽しく真剣に歴史する場を作りたい。いろいろな歴史の「楽しい」「面白い」を持ち寄り、たくさんの「歴史の仕事」を知ることができる場がほしい。」という趣旨のもと、名古屋大学で歴史フェスが開催されていて、残念ながら現地には行けず、オンラインでの参加でしたが、それでもかなり楽しむことができました。実行委員会の方々は大変だったでしょうが、こういう取り組み、今後もぜひ続けて欲しいなぁと思いました。
 それでは「概説 静岡県史」第133回のテキストを掲載します。

第133回:「戦時工業再編と統制」


 今回は、「戦時工業再編と統制」というテーマでお話します。
 1937年(昭和12年)6月に成立した第一次近衛文麿内閣は、組閣直後に陸軍が要求する軍需産業拡充計画を受け入れて「生産力の拡充、物資需給の調整、国際収支の適合」という財政経済三原則を発表しました。そのため、経済統制開始のために必要な手続きとして、9月10日に「輸出入品等臨時措置法」と「臨時資金調整法」を公布し、国家政策として戦時重化学工業化の方向づけを明確に打ち出しました。この2つの法律は、輸出入にあたって不要不急産業に対して為替、外貨割り当てを徹底的に圧縮し、戦時重化学工業化に必要な資材物資の輸出入を最優先するとともに、国内的には軍需産業に対する重点的投資として、国家資金供給を日本興業銀行を始め、その他民間金融機関を通じて行うこととしました。「臨時資金調整法」では、産業を、
 甲=軍需産業およびこれに密接な基礎産業。
 乙=甲および丙に属さない産業。
 丙=生産力過剰な産業、奢侈品その他、当面設備の新設、拡張または改良をなす要なき産業。
の3つに分類しました。
 そして金融機関が設備資金を貸し付ける際に、甲に対しては原則許可、丙は原則不許可とすることとしました。さらに時局緊急部門の企業拡張のための増資は、全額払い込み前に認め、その種の企業の社債発行限度を、商法の規定にかかわらず、資本金の2倍まで可能としました。
 軍需品をはじめ、石油、高度技術の機械、鉄鋼・鉄くず等の生産手段を、イギリス・アメリカなどに強く依存していた日本の資本主義は、慢性的な貿易赤字のもとで、戦時経済の運用を図るためには、このような統制の強化がどうしても必要だったわけです。
 38年4月1日には、戦時経済統制の根幹をなす「国家総動員法」が公布され、これ以後、同法に基づくさまざまな命令が発令され、戦時工業化が推進されました。
 36年以降の静岡県内の職工5人以上の工場数は、36年から39年にかけて各部門とも急増しています。43年以降の統計はありませんが、39年がピークで以降は停滞しますが、食料品工業や機械器具工業は40年以降も漸増し、42年時の対36年比は、食料品工業で2.6倍、機械器具工業で2.6倍に達します。一方、紡織工業は39年を境に急減します。当初は外貨獲得のため輸出リンク制のもとで輸出振興措置が取られましたが、綿花輸入が大幅に削減されると後退せざるを得ませんでした。それでも42年の職工5人以上の工場総数4490のうち、1/4にあたる1115が紡織工場ですが、戦争末期にはさらに減少したと推定されます。別珍・コール天の中心的産地である磐田郡福田町の織物工場が、原材料不足から廃業に追い込まれ、織機類を兵器生産原料に供出したのは、その一例です。
 静岡県に軍需産業工場が増加した理由の1つは、京浜工業地帯などに集中していた工場が、「工場疎開」の意味も含めて地方進出を図ったことです。庵原郡蒲原町に進出した日本軽金属の場合、地元資本の鈴与商店が清水港水面利用権を譲渡するなど積極的な役割を果たしています。三菱重工業が静岡市に進出した際には、軍が土地買収仮契約の場に臨み、売買価格決定前に仮契約を結ぶなど、強硬な態度を示しました。
 京浜地区と名古屋・阪神地区とに近く、交通の便利な静岡県には、日中戦争開始以降、早い時期から工場進出が相次ぎました。主力工場が設置されると、その系列下の下請け工場も新設されるため、同一産業部門の工業数が増えることになります。
 県外資本の工場開設は、主なものでは東京芝浦電気、日産自動車、富士製作所、東亜燃料、東洋缶詰、小糸製作所、理化学研究所、住友金属、中島飛行機、矢崎電線などで、県内資本の工場も、唱和洋行、鶴見窯業、東洋機械、太陽アルミ、赤阪鐵工所、旭可鍛鉄が工場を新設しています。
 軍需工場は新設、増設だけでなく、在来産業の軍需工場化を伴いました。浜松市の日本楽器製造では、1928年(昭和3年)ごろから航空機のプロペラ生産を開始していましたが、38年にプロペラ工場が軍管理工場となり、39年には楽器生産が全面禁止とされ、プロペラのほか航空機部品、落下タンクなどへの業種転換を迫られました。
 浜名郡可美村、現在浜松市の遠州織機会社でも、商工省の指導方針に従い、フライス盤、ボール盤生産に転換したことで、41年には織機よりも工作機械生産に重点を置くようになりました。遠州織機は、同年遠州機械と改名しました。
 このようにほとんどの工場が軍の直接監督下に置かれました。44年3月調べの浜松地方工場のうち、航空本部監督官の管理下にあった飛行機関係工場は、従業員4850人の日本楽器、360人の同天竜工場、新居町12人、鷲津町690人の中島飛行機、950人の河合楽器、290人の山下鉄工所、410人の東洋木工、335人の石川鉄工所、340人の浜松航空機製作所、400人の小糸航空工業、1130人の遠州機械、65人の日本パッキン、90人の国分鉄工所、50人のヤスイ浜松工場、300人の日本形染、90人の不二化学工業所です。
 また、名古屋造兵廠浜松監督官の管理下にあったのは、従業員960人の鈴木織機浜松工場、300人の同高塚工場、1760人の遠州機械、498人の東洋木工、1720人の浅野重工業、230人の三協機械製作所でした。
 大工場が進出すると、それを支える下請け工場が必要となり、それらに対する助成が問題となりました。1936年(昭和11年)7月8日に、静岡県中部鉄工機械工業組合の創立総会が静岡市公会堂で開催されたのは、その一例と言えるでしょう。設立要綱には、静岡市、清水市、安倍郡有度村、庵原郡袖師村、志太郡焼津町、同郡小川村を組織範囲とし、金属製機械器具、同部分品・付属品、鉄工品製造、鋳物用木型製造業者を組合員の資格とし、第一期事業としてこれらの業種に対して、検査、製品加工共同設備、共同販売、共同運輸等の実施をうたい、第二期事業として物資供給、統制、資金貸し付け等を行うこととしました。傘下組合員は200人に上っています。
 浜松史跡調査顕彰会編『遠州産業文化史』によると、浜松の下請け工業の整備は41年から始まり、大企業を中心とする企業集制が採用され、工作機械メーカーは43年に旋盤集団として組織されました。旋盤集団とは、1つの工場で旋盤部品を製造し、それを責任工場に集めて組立完成品として生産性を上げるというものですが、工員不足と技術レベルの低位性が災いして、それほど能率的ではなかったと言われています。下請け工場の従業員規模はさまざまですが、平均すると25人なので中小工場ということになりますが、それら零細工場で航空機部品、工作機械、弾丸部分等が生産されていたわけです。
 戦争末期、空襲被害を避けるため工場を分散疎開したり、しようとした例はかなり多いようですが、秘密裏に行われたため資料に乏しく、実態は把握できていませんが、一例として中島飛行機浜松製作所について見てみましょう。
 中島飛行機浜松製作所は、浜松市宮竹の宮竹工場、浜名郡鷲津町の鷲津工場、浜名郡新居町の新居工場の3工場があり、そのうち新たに工場を建設したのは宮竹工場だけで、他は織物工場を接収したものでした。主力は宮竹工場で、部品組み立てとエンジンの最終組み立てが行われることになっており、1944年(昭和19年)11月に試作エンジンが完成しました。ところが同年12月7日の東南海地震により「全工場の八割倒壊」「復旧の見込み不立」という被害を受け、45年に入ると空襲に見舞われました。
 そのため疎開することになり、45年4月に命令が出されました。1つは小笠郡原谷村・桜木村、現在掛川市の3万3000平方メートルの敷地に工作機械を備えた地下組み立て工場を建設し、移転すること、もう1つは鷲津・新居工場の分散疎開で、鷲津工場は既存の7工場に工作機械を移し、新居工場も学校や製茶工場などの9か所に分散させるというものです。敗戦までに鷲津・新居工場の疎開はほぼ完了しましたが、原谷村の地下工場は床面積3000平方メートルの掘削が進んだだけで、工作機械の備え付けには至りませんでした。なお、地下工場造成作業には多くの強制的に連行された朝鮮人が使役させられていました。
 次回は、「工業の構造変化と労働力の動員」というテーマでお話しようと思います。

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