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【発売前全文公開】今年1月に広島で新発見! 幻の古代山城「長者山城」 の謎に迫る!(歴史研究の最前線)

歴史No.1雑誌・『歴史人』5月号から抜粋された記事を、2024年4月6日の発売前に無料で全文を大公開!
今回の歴史研究の最前線ニュースは、広島県で相次いでいる古代山城の発見についてです。
2024年1月に安芸で未知の古代山城「長者山城」(仮称)が発見。さらに昨年3月には備陽史探訪の会と古代山城研究会の合同踏査によって「芋原の大すき跡」が古代山城だと確認され、『続日本紀』に記載がある備後国の茨城の可能性が極めて高いといわれています。
新たに発見された城跡の謎に、第一線で活躍する歴史研究者&歴史作家が迫る最新の歴史研究レポートをお届けします。

監修・文/向井一雄

むかい かずお/1962年、愛媛県生まれ。城郭・古代史研究家。1991年に「古代山城研究会」を組織し、現在は同研究会の代表を務める。著書『よみがえる古代山城』 (吉川弘文館)、共著に『日本城郭史』(吉川弘文館)など。



天智天皇の時代に築かれた国防体制
「古代山城」とは?

7世紀に入ると、東アジアの動乱とそれに備えた国防の一環として、各地に山城が築造されるようになった。
では、「古代山城」はなぜ生まれたのか、そしてどのようなものなのだろうか。

図版/アトリエ・プラン

7世紀の日本に迫る危機と
山城を拠点とする防衛ライン

 7世紀に入ると東アジア情勢が緊迫し、流動化していく。新羅は唐と同盟を結び、斉明6年(660) 百済を挟撃しこれを滅ぼした。倭国は百済復興運動を支援して出兵したが、天智2年(663)の白村江の戦いで大敗し半島から撤退。百済復興は為せなかったが、強大な唐の陸海軍が百済征服の余勢を駆って日本へ来襲する危険が生じた。

 天智3年には対馬・壱岐・筑紫に防人と烽を設置し、筑紫に水城 (現在の福岡県太宰府市)が築造された。翌年には百済からの亡命貴族の指導で、長門の城、筑紫の大野城、椽城( 基肄城)が築城され、さらに天智6年大和高安城、讃岐に屋嶋城 、対馬に金田城が築かれた。

 地図で見ると、対馬の金田城を最前線として畿内に最後の砦の高安城が控えるというように、九州から畿内までの防衛ラインが浮かび上がる。隋唐帝国の成立による東アジア情勢の緊迫を背景とする激動が、倭国における古代山城出現の契機になっている。

『日本書紀』『続日本紀』などに
記録が残る山城と記録にない山城

 西日本の古代山城には、『日本書紀』『続日本紀』などの記録の残るものと記録にない山城があることから、前者は「朝鮮式山城」、後者は「神籠石系山城」と呼ばれている。

 1970年代の瀬戸内における古代山城の発見を受けて、1980年代には北部九州の「神籠石」の遺跡は、瀬戸内で新しく確認された遺跡も含めて「神籠石系山城」と呼ばれるようになり、神籠石系山城は16城となった。朝鮮式山城(天智紀山城、史書記載山城)と神籠石系山城(史書非記載山城)の両者には基本的に大きな違いはないため、近年では、一括して「古代山城」とされるようになってきた。

 古代山城は中世城館のような曲輪を持たない。城内に建物や居住空間としての削平地は存在するが、土塁や石塁で山地全体を囲い込んでいる。単郭で稜線等の地形を利用しているため形は定まっていない。日本の場合、山城の規模は1・7~6・3㎞で、2~3㎞のものが多い。


安芸国の成り立ちに関わる重要な遺構
長者山城の新発見

2024年1月末に世間を賑わせた、長者山城の発見。
その経緯と踏査によって見えてきた全容を、発見までの経緯を含めて徹底解説する。

長者山城の遠景
国土地理院の地形図では標高571mピークが長者山となっているが、明治時代の地形図では、単独の山頂の名称として定まっていない。『芸藩通志』『西志和村誌』は長者伝説の舞台である古代山城の所在山域を長者山と呼んでいることから、「長者山城跡」と命名された。

瀬戸内における古代山城の
空白地帯で見つかった山城

 1970年代以降、瀬戸内地域で次々と古代山城が発見されていったが、広島県西半の安芸の国だけは空白地帯だった。

 東広島市教育委員会の石井隆博氏は、市内の赤色立体地図を閲覧整備した際、長者門の遺構周辺を確認。稜線に沿って人工的な地形改変痕跡が巡っていることに気づき、2019年3月に現地で古代山城と考えられる遺構を発見した。

 古代山城研究会では2023年2月、東広島市教育委員会の案内で現地を見学した。そこで全体の現状把握が進んでいないことを知り、会の有志による8次に及ぶ踏査を実施して、2024年1月に長者山城の詳細を報告した   *1 。長者山城は24年ぶりの発見、25番目の古代山城となる。
*1 古代山城研究会 研究報告会資料集『長者山城跡』2024

 長者山城跡は、東広島市と広島市の市境に位置し、長者山(標高571m)から東北へ伸びる山地の先端、標高605mの無名峰にある。北と東南に尾根が伸びて形成された馬蹄形の山地の稜線外側に土段状の帯状平坦面が続いており、外郭線は周長2・4㎞だ。

 城門跡と考えられる遺構―長者門は、標高516mピークと長者屋敷跡のある無名峰の間の鞍部に造られている。遺構は大きな石材を用いて、列石と一部石築で造られている。城門遺構全体の長さは、約30mで、門幅が4・7m、奥行きは9m。列石は直線的に並べられており、門道中央で屈曲する「折れ」構造を取る。外郭線が直線的な「折れ」構造は瀬戸内の古代山城に特徴とされる。

長者山城の遺構と他の古代山城を比較
瀬戸内と九州のハイブリッド的な特徴

 長者門の列石・石築上には版築など盛土が構築された様子はない。特徴的な加工としては、正面右側の列石上縁部に幅約10㎝の段差調整面加工がある。右背面は石築で構築されており、切り欠き加工(鍵形加工)が確認できる。列石上縁部の段差加工と石築部の切り欠き加工積みは、いずれも北部九州の史書非記載山城によく見られる加工で、瀬戸内では石城山城(山口県光市)でしか確認されていない。 

 長者門から西北の無名峰に長者屋敷跡がある。4つの曲輪と東西2本の堀切が設けられており、中世城郭の遺構と考えられる。稜線外側には幅3~5mの土段状遺構が断続的に続く。長者門の東側の尾根上には土段が良好に残っていて「折れ」と考えられる部分もある。 『西志和村誌』の長者屋敷跡の項目には、長者門より12丁20間(1・2㎞)下った場所に「瀧の宮跡」と呼ばれる築地があったとする。これは谷間を塞ぐ「水門石塁」の可能性が高い。現在遺構はなく土砂災害で流出してしまったらしい。

列石の上縁段差加工
長者門正面右側の列石上縁部に段差調整面加工がある。 上縁を10~15cm幅でL字にカットする、北部九州の史書非記載山城の列石に特徴的な加工だ。列石の上縁を揃えるために施されているが、目的は不明である。

 長者山城の遺構について、他の古代山城と比較すると、城壁の形は瀬戸内海の山城に共通点が多い「土段式」になっているが、列石や石築の技術的な特徴は、瀬戸内と九州の中間的な石城山城や阿志岐山城(福岡県筑紫野市)と共通しており、地形の取り込み方は瀬戸内に多い「鉢巻型」より九州に多い「傾斜囲繞型」であるなど、瀬戸内と九州のハイブリッド的な特徴を持っている。

安芸国府の所在地の謎を
解明する大きな手がかり

 奈良時代の安芸国府の所在を巡っては西条と安芸府中町の2説ある。長者山城は安芸国分寺跡と安芸国府(下岡田遺跡)の中間にあり、この論争に一石を投じる発見である。

 長者山城は安芸国の2大中心地の中間にあって両地域を睨み、かつ両地域を結ぶ交通路も押さえている。城を中心とした半日の軍事行動圏(半径11㎞)には、山麓の志和盆地だけでなく、西条盆地の西半ば近く、安芸国府の置かれた府中町、さらに瀬野川河口の津まで収めている。

 古代山城は旧国単位で1、2城といった分布状況で、氾西日本的な分布は国家的レベルの遺跡だ。超地域的な施設でありながら、その占地は複数の地域中心の中間地点にあり、駅路や港津などを押さえている。古代山城というと単なる防衛施設と考えられがちだが、朝鮮半島諸国では「治所城」として築かれており、日本でもプレ国府的な役割を担った可能性が高い。


備後の古代史最大の謎!
備後の茨城

長らくその所在地が不明だった茨城。
「芋原の大すき跡」がその位置に該当する可能性が極めて高い。
史書に残された手がかりから読み解く。

寺谷水門推定地
茨城の南側には東西二つの谷部が入り込んでいる。土塁線から水門石塁の位置は推定できるが、明確な遺構は確認されていない。

長らく所在地を巡る論争が
繰り広げられた謎の城

 『続日本紀』養老3年(719)12月条に「備後国の安那郡の茨城と葦田郡の常城を停む」とあり、備後国の2城が同時に廃城になったことがわかる。

 この年は軍制改革が実施され、茨・常城は軍団縮小の関連記事として『続日本紀』に収録されたらしい。瀬戸内の古代山城については、長門の城や屋嶋城の他には、茨・常2城の停止記事だけである。

 茨城は江戸時代以来、長く未詳だった。川北・川南説(吉田東伍)、北山説( 廣島縣史)、井原説(日本地理志料)、要害山説(高垣敏男)、蔵王山説(豊元国)、木之上城説(七森義人)が提唱されたが、遺構は確認されていなかった。

 備陽史探訪の会は1985年頃、広島県福山市加茂町北山で「芋原の大すき跡」という伝承を持つ謎の遺跡を確認したが、この時は古代山城と確定できなかった。2023年3月に備陽史探訪の会と古代山城研究会による合同踏査会で、明瞭に内托土塁の残存が認められ、茨城の遺跡として発表された   *2。
*2 第65回古代山城研究会例会予稿集『謎の山城・茨城を探る』2023

古代山城の中では大型の部類
遠く瀬戸内海まで見える「芋原の大すき跡」


 「芋原の大すき跡」は標高412mの準平原の要害地形に占地、遠く瀬戸内海まで見える。外郭線は山の8~9合目を鉢巻状にめぐり、周長は約3・1㎞で古代山城の中では大型の部類に入る。


 外郭線の形状は、北辺城壁が幅6・5m、高さ2・5mの内托土塁で、土塁の城内側に幅0・5~1・2mの城内通路が伴っている。「大すき跡」の正体はこの堀状の城内通路だった。南辺外壁は土段状土塁(幅3~4m)で急斜面上に造られている。

 外郭線南側は2つの谷をまたぐが、後世の開墾によって水門石塁などは残っていない。城内には広い平坦地や湧水地が点在している。芋原と常城推定地の亀ヶ岳は互いに望見できないが、中間の蛇円山を経由すれば連絡可能である。

 茨城は古代の発音では「ウバラノキ」と読むのが適当である。茨城の遺跡所在地は「芋原」であるが、中世以降の茨の発音であるイバラに近く芋原が茨の遺称地名であるとみられる。


古代の政治中心地・備後国府の背後にそびえる
複数説が唱えられる常城

『続日本紀』に名を残す常城の所在地解明は、
古代備後の歴史を解き明かす重要なピースである。

数多の説が唱えられてきた
未だ謎多き古代山城

 常城は『和名抄』の葦田郡に都禰郷があり、広島県福山市新市町大字常が遺称地名とされ、亀ヶが岳が推定地となっている。

 1952年、豊元国は福山市新市町と府中市にまたがる亀ヶ岳(標高539m)で常城の遺跡を確認したと日本考古学協会で発表した *3。 亀ヶ岳の東斜面に怡土城に類似した古代山城があったとし、切り落とし状の土塁や水門石塁を報告しているが、古代山城の調査が進んだ結果、豊説の遺構は古代山城ではないと考えられている。
*3「備後常城の話」『芸備地方史研究』No.14,1955

 豊は基壇を有する礎石群を常城の望楼( 火呑山建築址)だ主張したが、現在では青目寺の東御堂とされている。青目寺跡は亀ヶ岳山頂の七ツ池周辺に残る平安期の山岳寺院で発掘調査によって平安初期の開基で南北朝期まで維持されていたことが判明している。

 亀ヶ岳の南麓の府中市街では備後国府跡があったとされ、30年に及ぶ発掘調査によって、府中市街地北半に国府が存在したことが明らかとなった。国府建設は常城廃城以降だが、各地の古代山城に近接する国府の事例は多い。

 常城は1982年に脇坂光彦が七ツ池周辺の山頂部を城域とする新説を発表した *4 。近年の踏査で七ツ池を囲む稜線上に土段状土塁、土堤状土塁が確認されているが、遺構の残りが悪く断続的な残存状況だ。七ツ池は江戸時代に造られた農業用の溜池で、常城の水門石塁などは溜池工事で破壊されたとみられる。
 *4「備後国府成立の考古学的背景」『芸備』12号

 備後南部には7世紀代の横口式石槨を内部主体とする終末期古墳が数多く造営されており、備中北部や安芸東部の後期古墳と共に吉備包囲網の中核と目されている。

 国造制、屯倉制、群集墳、終末期古墳、国府跡、古代寺院跡、駅路という6~7世紀史を解くパズルの中でも古代山城は最重要なピースといえる。広島県の古代山城の調査は始まったばかりで、将来の発掘調査によって築城年代や構造の解明を期待したい。

『歴史人』2024年5月号

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