ロマン主義時代の群像Ⅲ:エヴァリスト・ガロアの死
プーシキンやレールモントフがペンによって専制と闘っていたのと時を同じくして、フランスでも自由を求める人民たちの闘いが転換点を迎えていた。
1830年の7月革命でブルボン復古王政が崩壊すると、一時は自由な社会が到来したかに見えた。だがやがて、その「自由」は、金持ちだけのための「自由」であることがはっきりしてきた。
金持ちたちが存分に、金を儲ける自由、他人を蹴落とす自由、弱者を見下す自由を行使する一方、パリの貧民は、相変わらず1789年以前と同じように、爪で火をともすような極限の生活に耐えていた。
やがて彼らの中から「パンを!」という鋭い叫びが上がり始め、それと呼応するように、皆が平等な社会の樹立を目指す革命勢力が暗躍を始める。
数学の天才エヴァリスト・ガロアは、そうした勢力のうちの一つに身を置いていた。
それには、彼の父の死が深くかかわっていた。
パリ近郊の町ブール=ラ=レーヌに、町長の息子として生を享けたガロアは、当時の社会では申し分のないエリートとも呼べる層に属していた。
ところが、彼が17の時、父親が謎の自殺を遂げる。
その真相はまことに醜いものだった。
開明的な町長の存在をやっかんだ町の僧侶の一人が、詩作が趣味だったガロアの父の作風を真似て卑猥な詩を書き、それを町中にバラまいたのである。誇りを傷つけられた父は、自ら首を吊って死んだ。
葬儀に駆け付けたガロアは、涙にむせぶ母親や親族から、事の真相を聞かされて、烈火のごとく憤った。敬愛する父を、封建制の残滓にすがりつく僧侶に「殺された」ことで、それまで彼の心中にくすぶっていた社会への怒りが一気に爆発したのである。
すでに並外れた数学的才能を発揮し始めていたにもかかわらず、彼が革命運動へとのめり込んでいったのには、こういう事情があった。
間もなく彼はパリの高等師範学校に入学するが、反動的な教師たちにことごとに盾ついたために放校処分となり、仕方なく、家庭教師の真似事をしながら、本格的な数学研究を手掛けるようになる。
時に1831年。世はまさに7月革命後の混迷期に突入していた。ブルジョワジーに推されて王位に就いたルイ・フィリップは、根は善良な人物であり、他人を思いやる温かみを備えていたが、彼を頂点とする体制が、金持ちのために存在するものである以上、民衆には明日への希望など持ちようがなかった。
この頃、さる革命勢力に加入したガロアは、とある宴会の席上、ナイフの切っ先をグラスに突きつけながら「ルイ・フィリップ王に乾杯!」と、皮肉を込めて叫んでいる。貴様と貴様の体制なんか、僕がこのナイフ一本で葬り去ってやるという、あまりにも無鉄砲で子供じみた意思表示だった。
だが、逆に言えば、そんな馬鹿をやらないことにはとても耐えられないくらい、彼の憂悶と社会への怒りはともに深いものだったのだろう。
ガロアは不敬罪に問われ、獄にぶち込まれたが、コレラが流行し出したので、監獄近くの療養所に仮出所した。
どうやら彼は、そこで生涯ただ一度の恋愛を経験したらしい。
死の直前、彼は友人に「つまらない女に惚れたために、決闘を申し込まれた」と告白しているが、真相は今なお不明である。
わかっていることといえば、1832年5月30日の朝、パリ近郊で、ピストルによる瀕死の重傷を負った彼が、翌31日の午前10時に息を引き取ったということだけだ。
後に発見された彼のノートには、こう記されていた——「僕には時間がない!」と。
ガロアの死には、今なお多くの謎がつきまとっている。真相は誰にもわからない。将来有望な革命家と見なされていたために官憲に謀殺されたという説もあれば、人民を蜂起させるために、あえて悪辣非道な反革命派の手にかかったように偽装して、従容と死に就いたという説まである。
おそらく、真相はもっと単純なものだったろう。
本当に恋愛をめぐるトラブルが原因で決闘を申し込まれて、恋敵にでも撃たれて落命したと考えるのが一番自然である。
いかに数学の天才とはいっても、ガロアはまだ20歳の若者で、不用意に国王を侮辱して逮捕されるほどの浅はかさすら持ち合わせていた。慣れない恋愛にのぼせ上がって命を懸けてしまったとしても不思議はない。
数学の天才であるという誇りが、その自尊心を際限なく高め、自制心までをも失わせてしまっていた。
——しかし、これだけは言える。そういう彼だったからこそ、誰よりも鋭く社会の矛盾を感じ取り、誰よりも激しく憤り、誰よりも深く悲しみ、その命を縮めてしまったのだと。
だから、あえて私はこう言いたい。
ガロアは単に、恋敵や官憲の手にかけられて死んだ訳ではない。
矛盾に満ちた社会そのものに「謀殺された」のだ。
ガロアの最期の言葉というものが今に伝わっている。
臨終の床に駆け付け、涙にむせぶ弟に向かってかけた言葉だという。
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