ざっくばらん古代史!日本列島編

日本の歴史は神話から伝説、伝説から歴史に地続きで淀みなく進むので、どこから始めるかは難しいですが…

幸いに日本書紀と古事記(以下記紀)では神様の歴史“神代”と人の歴史“人代”に別れているので、とりあえず神代はスルーして、人代から…とはいえ人代も初めの方はまだまだ伝説めいた霞が掛かっていますので、気にしながらではありますが簡単に日本古代史ざっくり解説していきましょう、ハイ!

ちなみに考古学的には日本列島は15000年以上前から続く縄文時代がまずあり

BC1000年頃に稲作が普及し出した弥生時代が始まり

その稲作のお陰で小さなクニが大きなクニになって、青銅器と鉄器がBC200年頃から日本列島で同時に普及し始めると更に大きなクニになって

弥生時代後期の西暦0年くらいには、国内に大きな文化圏が幾つか分布するほど、各地域は成長を遂げていました

ちなみにBCは西暦0年を境に過去に遡っていって、ADもしくは表記省略が現代に進んでいくっていう年代表記なので知らない…人はいないかも知れませんが、忘れた人は思い返すか覚え直してご覧ください

で、文献的にはAD50年頃に漢委奴国王という金印を漢の光武帝より授与されているんですが…なんと現物も江戸時代に発見され今も現存しています

ただこのスタンプの読み方が、倭国王なのか伊都国なのか倭の奴国なのかは決め手に欠くので、結構みんな好きな事言ってます

で、100年頃は倭国王帥升(すいしょう)が、これまた漢に朝貢していて歴史に残る日本人第一号となっています

ただコレもどこの倭国か議論が分かれてまして…その当時大きいクニの双璧だった北九州か大和なのか、それとも巻き返しを企む小さなクニなのか…

ただハッキリしているのは、この頃には海外に使者を送る事が出来る程の裕福な地域が日本列島にいくつか存在し、日本国内が大きく発展していた事が窺えます

という前知識を抑えつつ…神話に移ります

まず記紀では初代神武天皇はBC660年に即位となっていますが…
系図で逆算したら多分AD100年頃に神武天皇こと磐余彦(いわれびこ)と想定される人物が日向から大和に移住したのかなと

おそらくウチの先祖は昔九州日向からやって来たらしいよって伝承では伝えられていたのでしょう

神武天皇が東征により大和の王になる
そう記紀ではなっていますが…軍事進出か集団移住だったかはともかく、途中現地民に襲われたり救われたりと東征神話の様な冒険をしながら大和の地に落ち着いたと

ちなみにこの頃は…先程も軽く述べたように各地域の文化圏がそれぞれ発展し、境を接し始めた事で交易なども含めて交流し影響しあっていた事が考古学的に証明されていますので、目的はともかく集団移住自体はあり得るし本当で良いのかなと

ただし大和の王になったかどうかは不明としか言いようがありません

とはいえ青銅器が普及し出したBC200年頃から銅鐸文化が出雲の中国地方や大和の近畿地方を中心に花開き

更にAD100年頃には突如巨大化した二種が出現し、大和の近畿式は近畿だけでなく瀬戸内海に隣接する地域全般に、尾張の中部式は中部全域に広まったと
ただし200年頃には全ての銅鐸文化がパタッと無くなるので…

AD100年頃に大和と尾張にそれぞれ2人のニューリーダーが出現したのと

200年頃に銅鐸文化圏の西日本全体にまで影響を与えるスーパーリーダーが出現したのだろうという事は想像出来ます

もしかしたらAD100年頃といえば倭国王帥升や神武天皇こと磐余彦が生きていた時代ですので、彼らがニューリーダーとなんらかの関わりがあったのかもしれませんが、それは誰にも証明出来ません

そして文献では150年頃より倭国大乱があったとありますが、平地を避ける為なのか山城を備えたい為なのか、この年代には高地性集落跡が各地で出没しだすと判明していますので、銅鐸文化消滅と関係しているかどうかまでは断定出来ませんが、概ね倭国大乱も間違ってはいないのかなと

で、だいたい同時期だけど情報があまり無い2代目から9代目の欠史八代はスルーするとして…

10代崇神天皇です
だいたい250年頃かなと予想、記紀では崇神天皇は四道将軍を各地に派遣して全国平定した事になっていますが…
実際も崇神天皇こと御間城入彦(みまきいりびこ)と比定される人物が大和地方から勢力を拡大し、かなり大きな連合政権にまで大和王権を広げる事が出来たのではないかと

その事を裏付けるのが大和発信の新しい文化である前方後円墳の広がりで、まず纏向遺跡の様な大規模な前方後円墳が大和で築造され、その頃より徐々に大和式の古墳が全国に広がっているのは立証済みなので、ある程度は記紀の記述を信用しても良いのかなと

と、その前に少し…前後しますが卑弥呼(ひみこ)の事も
邪馬台国の女王卑弥呼はだいたい200年頃に活躍した人物となります
では卑弥呼の邪馬台国と大和王権の関係はどうなのか?というとよく分かりません

考古学的には大和にも北九州にもアメリカでいうNYとLAの様に大都市があったので可能性はどちらにもあり
文献的にも連合政権の総称が邪馬台国ではなく、諸国連合の1つの国名が邪馬台国で、トップに選出されたのも1番強大な国という訳ではなく、カリスマ性なのか何なのか分かりませんが別の理由によるみたいなので…

しかも最近は畿内説と北九州説に加えて、邪馬台国は九州にあったが連合の為に大和に遷都したという邪馬台国東遷説も出てきたので、明確にコレというのは難しいでしょう

一応初期の大和政権では武力と祭祀、王と巫女が並立していた様な気配はあるんですが、巫女の記録の方は重視されず、記紀の時代にはあまり伝わっていなかったのか、情報が伝えられていないので結局はよく分かりません

ただ記紀から探すとしたら神との伝承が残る巫女で、崇神天皇の叔母である倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)こと百襲姫(ももそひめ)が比定されていて、崇神天皇とのエピソードや箸墓古墳が初の巨大前方後円墳といった条件面でも相応しいとは思います
とはいえ逆に大和王権とは全然関係なく、退治された九州の女酋長の1人という可能性も捨て切れません

もしかしたら考古学的見地から予測される、200年頃に出現した銅鐸文化圏の全地域にまたがって影響を与えたスーパーリーダーが卑弥呼だったらと考えもしますが…
それは一つのロマンと言っても良いでしょう

で、戻ります
魏志倭人伝では卑弥呼が死んだら戦乱が再び起こったと有りますし、記紀でも崇神天皇が全国平定の為に四道将軍を派遣していますが、実際もその時期は遺構や遺跡で確認する限り戦争跡がなんだかんだ有り…
最終的に完全に平定されたのは何代か後になったと考えられます

その辺りの事を物語として纏めたのが崇神天皇のひ孫の日本武尊(やまとたける)こと小碓尊(おうすのみこと)の英雄伝説で、実在したかどうかはともかく大和王権が大和から全国へ大きく飛躍した流れには沿ってます
コレがだいたい300年頃

それで日本が纏ったら次は海外進出です
記紀では日本武尊の息子の仲哀天皇のパートナー神功皇后こと気長足姫(おきながたらしひめ)が三韓征伐を行ったとありますが、実在したかどうかはともかく日本がこの頃朝鮮半島南部を席巻したのは中国や朝鮮の文献と照らし合わせても間違いありません

ただ三韓が百済、新羅、高句麗を指すのなら高句麗までは併呑出来てないので厳密には間違いで、北の高句麗の代りに小国の集まり伽耶を入れたら元々が弁韓地域→伽耶・馬韓地域→百済・辰韓地域→新羅なので三韓としては辻褄が合っています
この頃は3カ国の文献や石碑などと照合すれば確定出来るので、だいたい350年頃

で、なんやかんやありまして…高句麗、百済、新羅、伽耶のあった朝鮮半島を舞台に
中国、日本も交えて領土拡大戦争が繰り広げ
られる事に…

ちなみに日本が朝鮮半島に侵略したってイメージだと正確じゃなくて、そもそも日本統一以前は日本と朝鮮の間に国境ラインはなく、まず北九州北端&朝鮮半島南端文化圏グループがあって、それが大和王権に吸収されて独立性が薄まると共に自然に地政学影響を受けて分化していったという流れが正しいのかなと…

なので日本が強いから朝鮮半島に勢力拡大したとか、日本は弱いから朝鮮半島に勢力持つのは無理とか、現代視点で語るのはナンセンスなのでやめましょう

で、この頃は中国の文献に倭の五王として倭王の名が記載されているのですが、名前が中国式の一字に変換されてるので誰が誰だか分からないというジレンマ…

ただし日本の文献はこの辺りから具体性を増しているので、400年頃は大豪族の葛城氏が大和王権に絶大な影響力を持っていた事が読み取れます

ただそれも450年頃に21代雄略天皇こと大泊瀬幼武(おおはつせわかたける)大王が現れて、大激変
葛城氏を滅亡させるなど地方豪族を武力で捻じ伏せ連合体制から専制君主として君臨し、ここからは大和王権から大和朝廷として扱って差し障りない体制に

しかし雄略天皇が亡くなると、その反動で国内がざわつき後継者争いもあってゴタゴタ状態が続いてしまい、朝鮮半島への勢力争いどころじゃ無くなって…

500年頃に26代継体天皇こと男大迹王(おほどのおう)が即位するまでは国内のドタバタ解決するのが先決で、大規模外交はしばし休憩と

ちなみに継体天皇から歴史上の人物として学術的にも世界的にも認定され、現在の皇室まで繋がっています

ただ継体天皇は直系ではなく傍系で、神功皇后の息子である15代応神天皇五世孫という血縁の遠さから、その頃は何をしてるかも分からない何処の馬の骨とも知れない人物の王位簒奪といったイメージで語られる事もありますが、コレは間違いです

代々越の王として中央政権とも付き合いがあり、祖父の妹は皇后にもなっていますので、名門地方貴族というのが実際のイメージに近いでしょう
因みに後継者が居なくなったのは雄略天皇が政敵とみなした人間を、身内であろうと片っ端から討伐してしまったからです

そして550年頃になると、大豪族の蘇我氏が仏教導入を軸に大和朝廷に絶大な影響力を持って政権を担っていました

で、その後はそれなりに安定しつつ…600年頃には日本も国際化しようと
33代推古天皇こと額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)が、聖徳太子こと厩戸皇子(うまやどのみこ)に摂政を命じ、冠位十二階や十七条憲法を制定したり、遣隋使なども派遣して、立派な国になるべく頑張っていました

で、その頃の朝鮮半島情勢がどうなってるかというと…南端の伽耶が新羅によって滅亡

そして気がつくと中国も隋から唐へ
ただ、この唐が成立した事で高句麗、百済、新羅、日本は恭順か抵抗か選択を迫られる事態に

で、それぞれの国で成功失敗ともかくクーデターが起き結論が…
高句麗、百済、日本は抗戦決定
新羅は恭順決定

結論からいうと…唐と新羅が手を結んで、650年頃に唐をバックに新羅が朝鮮半島を治める事になりました

日本は後の38代天智天皇こと葛城皇子(かつらぎのみこ)つまり中大兄皇子(なかのおおえのみこ)が蘇我入鹿を暗殺して抗戦準備をしていましたが、海を渡って攻め込む派と海を渡って来るのを待ち構える派に分かれてマゴついてしまい…

結局高句麗と百済が滅亡した後で、百済復興勢力に頼まれ朝鮮半島に上陸、しかし白村江(はくすきのえ)の戦いで大敗北を喫し、これにより朝鮮半島の勢力争いからは完全撤退します

ちなみに任那問題というのがありまして…
朝鮮半島南端部に日本の勢力地域があり、果たして飛び地の領土なのか、日本街みたいな集団地域なのか、地方支社みたいな拠点なのか諸説ありますが…
コレも現代の感覚じゃなく北九州&朝鮮半島南端文化圏の名残りと思ったらスッキリします

で、この後天智天皇の弟で、のちの40代天武天皇こと大海人皇子(おおあまのみこ)が天智天皇の息子の大友皇子と争い、壬申の乱(じんしんのらん)で決着
あんまり知られていないけど、決戦場所は天下分け目の関ヶ原です

で、天武天皇は国号を日本、称号を天皇とし律令国家としての礎を築いていく…諸説ありますが

というわけで人代の初期になればなるほど記紀の信憑性には疑問を呈されることもありますが…
それは寿命や身長がとてつもなかったり、尻尾が生えてる人が居たり、魚に乗って海を渡ったりとマジカルな描写があるからで…
寿命を普通に戻して年代を調整すれば、大筋の流れはだいたい合ってるんじゃないかなぁと

いまや文献の考察は行き着く所まで行ってしまいましたが、考古学は発見がある度に日々更新されています
そして大体において記紀を訂正するのではなく補強している様な成果が挙がってきています…少なくとも自分にはそう見えます

となると、古代史の全体像も概ね記紀に沿った形で良いのではないでしょうか
そもそも古事記はともかく日本書紀は他国に自国の歴史を説明する為に編纂されたわけで、多少盛ったり誤魔化す事はあっても、そこまでいい加減な嘘はつけないでしょうと

あと余談ですが…記紀が出来る以前の古い時代から中国では日本人は呉の太伯の子孫という言い伝えが残ってまして、太伯は周の武王の大伯父でBC1000年くらいの人なので、日本列島で稲作が始まった時期と被るといったら被ります

また秦の始皇帝に不老不死の薬を探すよう命じられ3000人で蓬莱の国に旅立った徐福は日本列島に渡ったとされていますが…
これもBC200年頃の人なので、日本列島で青銅器鉄器が伝わった時期と被るといったら被ります
信じるか信じないかは貴方次第です

で、最後ですが戻します
この後は藤原氏が全盛となります…でもそれはまた別の話し
700年頃より後は奈良時代なので一先ずコレで終わりとなります、ハイッ!

古代は想像の学問とも言えますので、極論ばかりが巷にはまかり通っておりますが…
日本だと日本書紀、古事記、出来れば万葉集、風土記くらいまで、
朝鮮だと三国史記、桓檀古記、
中国は二十四史の全伝読むと大変なので、できれば東夷伝、少なくともその中で倭人関係の記録くらいは読んでもらえると、今回のまとめも納得していただけるのではないでしょうか…

そうなると嬉しいなぁ

おしまい

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