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パイオニア、そして実学の人”近代日本医学の父”「北里柴三郎」(STEP30min② 2020.8.26)

レキシズルの新企画「STEP30min」二人目のプレゼンターは宇内くん。
テーマは近代日本医学の父、北里柴三郎。

北里の元々の読み方は”きたざと”。
留学先のドイツではKITASATOと書いて、きたざと。
その表記が逆輸入され、”きたさと”と読まれたため、息子も戸籍を変えたそう。

1853年、ペリー来航の年に熊本で生まれた北里。
近代日本医学の父と呼ばれ、第一回ノーベル賞にもノミネートされている。

幕末、開国により伝染病コレラが大流行、10万人以上が亡くなった。

「予防医学を国民に普及させることが、結果的に国家を強くし欧米に負けない国をつくる」

医学を志した彼は、
東京大学医学部入学
内務省衛生局(現 厚労省)入局
ドイツへ官費留学
とエリート街道をつき進む。

◼︎世界の北里、爆誕
近代細菌学の開祖 ロベルト・コッホ(ドイツ)の研究所に在籍した北里。
研究に邁進した結果、不可能といわれた破傷風菌の純粋培養に成功する。

さらに彼は
「現場で役に立たなければ意味がない」
と、血清療法という治療法を確立する。

留学からわずか4年、世界の北里が爆誕する。

そんな時に、日本にいる東大の恩人から
「脚気菌を発見した」
という論文が届く。

北里はその間違いを指摘。
東京大学(=文部省)は「師弟の道を解せざるもの」と裏切り者扱いする。

それでも北里は
「日本医学の発展のためならば、不徳の者と評されても構いません。
学問に忠実な真の医者として当然のことをしたまでです」
と東大を敵に回す。

コッホは結核治療薬開発のため、北里の留学延長を日本政府に求めるが、「裏切り者に渡す金はない」と拒否される。

そんな時に、超大物が名乗りをあげる。

なんと、それは明治天皇。
天皇自ら「天皇御下賜金」として留学資金を提供したのだ。

◼︎研究と医療の両立を目指して
今や世界一有名な日本人となった北里。
帰国後はどこに行っても歓待され、世界中の研究所、病院からのオファーも殺到。
が、北里は断り続けた。
「天皇陛下の御恩に報いたい」と願ったからだ。

しかし、東大を敵に回した北里に居場所はなかった。

そこにまたもや救世主が現れる。

「優れた学者を擁して無駄に放置するは国家の恥
私の土地を使え、施設も用意しよう」
慶應義塾の福沢諭吉である。

福沢の援助を受け、北里は日本初の伝染病研究所、そして日本初の結核専門診療所を設立。
研究と医療の両立を実現させた。

福沢は言う
「独立自尊、経済的に自立ができるよう準備なさい。
しかし、君は研究と治療にのみ専念すべきだ。
そこで人材を用意した、田端くんだ」
と自らの懐刀を差し出した。

◼︎ワンチームでペストと戦え!
1894年、日清戦争前夜。
ヨーロッパ人の3分の1を死に追いやったベストが敵地香港で大流行、日本は医師団の派遣を決定する。

東京大学が治療と病原菌の採取、伝染病研究所が実験を担う。
敵味方なく、ともにペストの正体を探る人類の未来を決する戦争に挑んだ。

そしてついに、世界初のペスト菌発見!
再び北里の名前が世界を駆け巡る。

このペスト菌発見の功績により日本政府が動きだす。
伝染病研究所は、内務省管轄の国立伝染病研究所にパワーアップ。
世界三大研究所と称されるほどになった。

しかし、北里をよく思わない人たちがいた。
「北里は手柄を独占した」
そう、東京大学である。

日清戦争が終結、20世紀を迎えようとしていた時代の変わり目。
福沢諭吉、コッホが死去。

さらに明治天皇が崩御。
恩人が次々に亡くなる。

◼︎人生最大の困難、その先に待っていたのは・・・
北里にも人生最大の困難が降りかかる。

当時の新聞の見出しには
「内閣は北里を毒殺せり」とある。

政府は、国立伝染病研究所の管轄を内務省から文部省に変更。
これは、東大の傘下に入り、公衆衛生の普及から研究機関になることを意味する。

北里はこの方針を認めることができず辞表を提出。
設立から22年、北里は研究所を去る。

ところが、研究者35名全員が退職届を提出。
実験動物飼育係、ワクチン製造職員、約100名も退職、大半が北里の元へ走る。

しかし研究所もなく、皆を路頭に迷わせてしまう・・・
そんな北里の前に一人の部下が帳簿を差し出す。
そこには現在の金額で2億円が記載されていた。

部下の名は、結核専門病院の経理担当、田端。
「君は研究と治療にのみ専念すべきだ。
そこで人材を用意した、田端くんだ」
福沢諭吉が北里のために送り込んだ懐刀だ。

福沢先生は、いずれこうなることを予見し、死してなお導いてくださる・・・

こうして、北里研究所が誕生。
北里は、61歳で新たな人生のスタートを切ることになる。

北里が自由に活動できる私人になったことは、日本医学界にとって幸運なことだった。

彼は慶應義塾から依頼を受け、医学部長として医学部創設に尽力。
生涯、無償で役職を引き受けた。

78歳、北里は静かに息をひきとる。
日本医学界にささげた人生、門下生は5000人を超えた。

「事を処してパイオニアたれ。
人に交わって恩を思え。
そして叡智をもって実学の人として、不撓不屈の精神を貫け」
まさに北里の人生を象徴する言葉である。

2015年、2億人を失明の危機から救った研究で、大村智 北里大学教授がノーベル生理学医学賞を受賞。
研究と実学の両立というDNAは引き継がれた。

北里が61歳で直面した人生最大の危機があったからこそ、北里DNAが花開いた。
人生に無駄なことはなく、困難と思えることこそ、そこを乗り越えた先に、予想もしなかった明るく大きな未来が待っている。

北里を熱く語る若きプレゼンターを見て、そんなことを感じた夜なのでした。

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