見出し画像

”麒麟がくる”ことを本当に願ったのは?「織田信長TERAKOYA」(2022.6.11)

戦国時代の「革命児」とか、
比叡山を焼き討ちした極悪非道な「魔王」
と語られてきた織田信長。

しかし、”戦国時代一筋”の
プレゼンターくどはんによると、
最近になって同時代の資料が研究されるようになり、
全く違う信長像が浮き彫りになってきたそう。

結論から言うと、
”人を信じすぎる真っ直ぐでピュアな人”
だから思いがけず謀反を起こされちゃったんじゃない?
というびっくりな信長像だったのだ。

◆第一部 天下静謐
信長といえば「天下布武」
つまり”武力で天下を統一する”がスローガンだったんじゃないの?
と思ったそこのあなた。

実際は全然違うんですって。

当時、都では将軍 足利義輝の家臣、
三好三人衆が将軍の屋敷を襲うという事件が勃発。

しかも、ちょっとおどしてやるつもりが
思った以上の戦になり将軍が自害。
うっかり将軍を死なせるという、とんでもないことになってしまった。

次の将軍候補は義輝の弟の覚慶。

あわてた三好三人衆は、
覚慶を担いで自分達に敵対しようとする勢力が現れないよう、
こともあろうに彼を幽閉。

しかし覚慶は監視の目をくぐり都を脱出。
全国の大名に自分のサポートを呼びかける。

が、全員ガン無視。
ただ一人助けたのが信長だったのだ。

覚慶こそ足利義昭。

「天下布武」とは、
”義昭様のために天下を平定します”
という意味で、”天下”も全国ではなく畿内、
今に例えると首都圏の範囲。

しかも、武力で倒すのではなく粘り強く説得。
説得に応じない場合はやむを得ず武力で倒すという、
従来とは全く違う信長のイメージ。

将軍になった義昭は信長に副将軍になってと言うも、
「天下布武を達成したから美濃に帰ります」と辞退。
これからは「天下静謐」、つまり天下太平を目指したいと言う。

なんて謙虚で平和主義・・・

とはいえ都周辺は不安定。
しばらく将軍を守らないと、と思う信長。

そんな信長に将軍が
「自分のいうこと聞いてくれない大名がいるからなんとかして!」
と言ったことが発端でとんでもないことに。

気がつけば、その大名の後ろ盾だった朝倉、
味方だった浅井、
加えて三好三人衆、石山本願寺も敵となり・・・

これが世にいう”信長包囲網”の実態なのだ。

比叡山焼き討ちだって、
朝倉・浅井の落武者が比叡山に逃げ込み、
その引き渡しを信長が一年粘り強く待っても
比叡山が無視したから、というのが真実。

なんか信長がかわいそうになってきた・・・

◆第二部 決裂
将軍 義昭のために働く信長、
しかし二人に決裂の時が。

きっかけは武田信玄と徳川家康の領地争い。

なんやかんやで織田・徳川連合軍が信玄に惨敗。
ワタワタ慌てる義昭に、ちゃんとして!と信長は
「十七ヶ条の異見書」という手紙を書いた。

めっちゃ説教された!と思った義昭はブチギレ、
信長に反旗を翻す。

結局、武田信玄の死で信長最大の危機は脱するも、
義昭との仲は戻らず、将軍不在の都は混乱。
「誰かが何とかせねば・・・」と信長。

ここでようやく織田政権がスタートすることになる。

◆第三部 信じた果てに
将軍不在の都。
信長は将軍に代わり正親町(おおぎまち)天皇を中心に
天下静謐を目指そうと考えた。

そのために戦いに次ぐ戦い。
ついに信長を単独で倒せる大名はいない状態に。

帝からは従三位権の大納言 兼 右近衛大将
という足利義昭と同位、
かつ源頼朝も授けられた武家の棟梁としての位を与えられるまでに。

天下静謐まであと一歩。
が、やはりまだ信長に反抗する勢力はおり、
それが中国地方の毛利と四国地方の長宗我部だった。

天下静謐の総仕上げとして、
毛利と長宗我部を討伐するため都入りする信長。

もはや都で信長に敵対する勢力はなく、
お小姓衆2-30人しか連れていなかった。
そこで起きたのが本能寺の変だったのだ。

明智光秀がなぜ信長に謀反を起こしたのか?

諸説あれど最近になって注目されているのが
「四国説」

光秀が長宗我部との交渉役として尽力していたが結局戦に。
信長は、光秀ならわかってくれるだろうと毛利攻めを命じた。
が、光秀はプライドを傷つけられ、自分の立場も危ういと感じ、
ならば信長を倒し自分が頂点に立てばいい!
という考えに至り、本能寺を攻める。

その時の信長の有名なセリフが
「是非に及ばず」

現代語にすれば
「考えられん!」「ワケがわからん!」という意味だそうだ。

信長、光秀を信じきってたのね・・・

◆エピローグ
信長が「天下静謐」にこだわった理由とは。

信長の若き日を振り返ると、
勢力を急拡大した成り上がり者の父の死後、
周囲を敵に囲まれ苦労した。

謀反を起こした弟を許すも、
優秀な弟を担いで自分を裏切る者をなんとかすべく、
やむなく弟を殺害した。

そんな背景が天下静謐にこだわる理由だったのではと
プレゼンターは語った。

のちに秀吉は「信長様の時代にみたいに優しくしないからね!」
と言ったとか。

本当の信長の姿は人を信じて、人に尽くし、人に優しい、
そんな戦国大名だったのだ。

わたしは、その信長像が
小栗旬くんが主演を務めた「信長協奏曲」の信長に重なった。

信長が花押(サイン)に用いたのは「麟」。
政治がいき届いて平和な世に現れるという麒麟のこと。

つまり、本当に「麒麟がくる」ことを願ったのは信長だったのだ。

最新の学説を入れつつポップなエンタテインメントに仕上げる。
くどはん先生、圧巻のプレゼンでした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?