見出し画像

四季で巡る松尾芭蕉の生涯「芭蕉TERAKOYA」(2020.9.12)

あなたは”俳句”好きですか?

プレゼンターかもめ曰く
「めっちゃ感動するとか自分で作るとかなくないですか?」
なんて、俳句ファンを敵にまわすような発言からスタート。

良さがわかっていないからこそ、俳句ってなんなん?という疑問がきっかけとなり、この「芭蕉TERAKOYA」につながったそう。

明治〜昭和の俳人 高浜虚子によると

"今日に至るまで、多少の盛衰もあり
多少の変化もあるにしたところで、
要するに俳句は芭蕉の文学である
といって差し支えない"

つまり、芭蕉を知らなければ俳句はわからないということだ。

◼︎第1部 そもそも俳句って?
俳句の元となったのは
・和歌 
・連歌 
・俳諧連歌

和歌は短歌ともいうが、明治より前に作られたものしか和歌といわないそうだ。
連歌は上の句(五七五)と下の句(七七)を別の人がつくるもの。
どちらも日本書紀、古事記にも載っている古いものだ。

連歌で有名なのが、本能寺の変の直前に明智光秀がつくった
「時は今 天が下しる五月かな」発句(五七五)
それを受けて
「水上まさる 庭の松山」脇(七七)
「花落つる 流れの末をせきとめて」第三(五七五)
さらにまた 七七→五七五→七七と続けていく。

俳諧連歌も連歌と同じようにつくっていくが、連歌が”雅”なのに対し、俳諧連歌は”俗”。
滑稽、ユーモア、とんち、シャレ、パロディが特徴だ。

ただ、パロディなだけに、元ネタとなる和歌とか漢詩とか教養がないと意味がわからない。

実は、芭蕉の最も有名な句
「古池や 蛙飛びこむ 水の音」
も、芭蕉が弟子と蛙をテーマにした俳諧連歌の会で作られたもので、そのあとに歌が続いていくのだ。

この句の斬新さは、蛙=鳴くものという常識を覆し、水の中に飛び込ませたところにあるらしい。

俗なものを残しつつ、句そのものを洗練させ、わびさびの美意識を加え、風雅という世界観を作ったのが芭蕉といわれている。

そして俳句。
「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」
で有名な明治の俳人 正岡子規が、
「もう、発句だけでいんじゃね。」
と言ったことから俳句が生まれる。

子規がいたからこそ、芭蕉の句が今でも親しまれ、インパクトを与えるものになっているといえる。

◼︎第2部 四季で巡る芭蕉の生涯 春・夏 編
芭蕉は1644年(正保元年)〜1694年(元禄七年)
徳川4代将軍・家綱と5代将軍・綱吉の時代に生きた。

一見、庶民にみえる芭蕉と将軍になんの関係が?と思うかもしれないが、芭蕉の背景を探ると深い関係が見えてくる。

芭蕉を調べると、忍者?男の娘好き?世捨て人で深川にきた?生活苦で水道屋?などなど、謎多き人。

その謎をプレゼンターが解き明かし”真実の芭蕉”を教えてくれるという。

まずは春、芭蕉の青春だ。

松尾芭蕉は伊賀国(三重県伊賀市)の出身で半農半士の家に生まれ、母親は伊賀忍者の元祖である百地(桃池)氏出身か?ともいわれている。

本名は金作。
伊賀国・藤堂藩の若殿に近習として仕えた。

金作19才、若殿21才。
俳諧を嗜む家で、大殿は宗徳、若殿は宗正(そうせい)、金作は宗房(そうぼう)という俳号を持ち、二人にかわいがられた。

北村季吟という俳諧の師匠を持った若殿と金作。
若殿は途中から蝉吟(せんぎん)と名乗るようになる。

二人が交わした歌が残っている。

七夕は 昨夜の雨に逢はぬかも(房)
逢ふも心の騒ぐ恋風(蝉)

伊達なりし ふり分髪は延ぬるや(蝉)
俤(おもかげ)に立つかの後つき(房)

花垣の 縄の結ひ目もゆるうなり(蝉)
わるさも止みし閨の稚い(房)

と、意味はわからなくとも、エロい雰囲気を漂わせている。

完全に、
「衆道一直線」
でしょう、とプレゼンターは言う。

しかし宗房(芭蕉)23才の時に、若殿・蝉吟は、本当に蝉のように儚く25才で病没する。

そこから29才までの芭蕉は謎とされているが、藤堂家に仕え、若殿の遺品を整理したり、俳諧修行をしていたと思われる。

芭蕉にとって夏の時代。
彼は「俳諧宗匠(プロ)になれたらな・・・」と思うようになる。
プロとは俳諧の良し悪しを判断する実力と納得させるための話術、俳諧連歌会の場を持たせる雰囲気づくり、そしてもちろん人気がなければなれない。

現代でいえば『プレバト!』の夏井いつき先生のような存在。

伊賀で俳諧の処女作を出し、師匠から免許皆伝を得た30才の宗房。
めざすは花のお江戸。しかし、江戸では全くの無名。

そこで宗房の面倒をみてくれたのが、日本橋の名主・小沢さん。
北村季吟の紹介といわれている。

とはいえ、一介の田舎者をなぜ小沢さんが雇ったのか。
それは宗房の背景に注目したから。

宗房が仕えた藤堂藩は、徳川家康の懐刀と言われた藤堂高虎が藩祖。
外様ながら三河以来の譜代大名と同じような扱いを受けていた。
そして築城の技術で培った優秀な土木技術を持っている。
名主は幕府の公共事業を請け負うことも多く、そこに期待した。

さらに、幼くして将軍になった家綱のバックにいたのが大老・酒井忠清。
この人の娘婿が藤堂藩三代藩主だったのだ。

①譜代並みの扱い
②優秀な土木技術
③超権力者の後楯
これが小沢さんが宗房を雇った理由だとブレゼンターは予測する。

期待された仕事をしつつ、宗房はのちに弟子になる人脈も形成していく。

32才になった宗房。
当時、新しい作風であった談林派の巨匠歓迎句会に参加、俳号も桃青という”当世”とかけた名に変え、そこそこの結果を残す。

そのあとも親友でもあった門弟と「江戸両吟集」を出したり、
「万句興行」というイベントを開催したり、
仕事でも神田上水の維持管理業務といった当時の極秘任務を任され、
「俳諧関相撲」という俳諧師ミシュランでベスト18に選出されるなど
絶好調の桃青、その時37才。

しかし、突如として江戸の町から姿を消す。
再び姿を現したのは、草木が生い茂る隅田川の川向こう、深川の粗末な長屋。

一体、桃青に何があったのか・・・?

◼︎第3部 四季で巡る芭蕉の生涯 秋・冬 編
深川に移った桃青37才、人生の秋といえる頃の句が
「夜ひそかに 虫は月下の 栗を穿つ」
なんとも寂しい・・・。

俳諧の第一線から身を引いた理由には様々な憶測があるが、プレゼンターが着目したのは、藤堂藩の後楯にもなっていた大老・酒井忠清の失脚だ。

綱吉が将軍になると徹底的に忠清を敵視。
忠清は大老を免職、屋敷を没収され翌年病没、忠清の弟、息子も粛清の嵐にあう。
桃青にも害が及ばないとも限らないことから、弟子は桃青の出版物を版木ごと処分し、なかったことにした。

38才、名も芭蕉と変えた。

それから4年後、綱吉の右腕であった大老・堀田正俊が江戸城内で刺殺された事件をきっかけに潮目が変わり、その影響か、芭蕉は初めての旅に出て「のざらし紀行」を刊行する。

翌年「古池や 蛙飛び込む 水の音」によって、43才、俳壇に復活する。

そして芭蕉の人生の季節は冬。
いよいよ「奥のほそ道」に出発、同行者は弟子の河合曽良だ。

曽良は現在の公安、つまり諜報員ともいえる幕府巡検使。
芭蕉は諜報ほう助員として”ナイスな言葉で情景を表す能力”を発揮。

任務は、
・日光東照宮の修復工事のリアルな動向調査
・伊達藩にくすぶる謀反の調査
だったが、伊達藩士は名所を案内してくれ至れり尽せり、謀反の心配はないとわかった。

伊達藩に入るまでの緊張の旅路は17句、ほっとした後は33句と残した句の数に大きな差がある。

40代を旅と紀行文に費やした芭蕉。
晩年は「不易流行」「かるみ」を唱え、弟子に伝授するため、再び江戸を出発。
しかし大阪で病に倒れ、51年の生涯を閉じた。

「不易流行」とは、この世のすべては、絶えず変化(流行)しながらも不変(不易)である、という壮大な宇宙観

「かるみ」とは、さまざまな嘆きに満ちた人生をほほ笑みをもって乗り越えてゆくという、たくましい生き方

旅に出ながらも、芭蕉は深川の小さな庵で、子規は病の床で庭を眺め、人生を短い句に凝縮した。

どこにいても、どんな状況でも、自分の人生をつくるのは自分。
ラストスライドのメッセージから、そんなことを思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?