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𠮷田恵輔監督最新作「ミッシング」、観客と主人公の温度差が生み出すものとは何か?

--以下、物語の核心に触れています。未見の方は注意してください--



主人公・沙織里は娘の足取りが掴めない状況に憤りを感じ、周囲に対して非常に攻撃的な態度をとっている。こうした状態の沙織里を演じるにあたって、石原さとみが長年培ってきたTVドラマ的なオーバーアクトはとても相性が良く、娘が行方不明になっている状況には同情しつつも、沙織里に対してはどこか一歩引いてしまうというスタンスを生み出すことに成功している。また、母親の落ち度を責める傾向にある日本社会において、娘が行方不明になっていたタイミングでライブに参加していたという設定はネット世論による誹謗中傷を加速させる格好のネタであり、これによって劇中、劇外どちらにおいても感情移入しづらい主人公という状況を明らかに意図的に作り出している。

月日が流れて好転するどころか次第に悪化していく状況に観客が心を痛める一方で、さらにエゴを剥き出しにしていく主人公との温度差は広がり続けていく。
その温度差が顕著に表れたのが沙織里へのロングインタビューのシーンである。娘への想いを必死に語る中でふとこぼした「なんでもないような日々が幸せだったと思う」という言葉に対して、多くの観客は「虎舞竜かよw」と思ったに違いない。そして劇中においてもカメラマンが「虎舞竜…」と呟くのである。沙織里に対する一歩引いた視点がまさにこの温度差を生み出しており、またこのシーンは、観客の視点もまたメディア的な露悪に塗れていることを表現しており、本作における白眉と言える。

物語は終盤を迎え、ここまで何を考えているか分からない変人として描かれてきた圭吾(沙織里の弟)が沙織里に対してつらい胸の内を明かす。娘の姿を最後に見たはずなのにその責任を放棄し奇行に走っている(ように見える)圭吾と、その圭吾を執拗なまでに攻撃する沙織里の関係は劇中においては沙織里⇄ネット世論と類似し、劇外においては沙織里⇄観客とも類似するのである。
圭吾の思わぬ告白に対して動揺を隠せない沙織里。その間隙をつくようにカーステレオから「Blank(沙織里が好きなアーティストで、娘が行方不明になった当時このアーティストのライブに参加していた)の『Masterpiece』」という曲紹介が流れてくる。まさに車中の空気感は(滑稽という意味での)傑作と呼ぶ以外になく思わず笑ってしまうのだが、異常なまでに圭吾に対して攻撃的だった沙織里もまた涙ながらに笑みを浮かべるのである。前述のロングインタビューの時には間違いなく存在した沙織里と観客の間にあった温度差が解消された瞬間である。

ちなみに最終盤では、一貫して冷静に努める夫の対応に温度差を感じていた沙織里が、思わぬ人物の思わぬ善意に触れて涙を流す夫の姿を目の当たりにするのだが、このシーンにおいて、沙織里が感じていた温度差は間違いなく払拭されたはずで、さらに言えば劇中での最大の泣けるポイントでもある。
このようにして、観客と沙織里との間に意図的に温度差を生み出し、それが沙織里ひいては観客の無意識的な加害性を可視化させ、さらにそれが解消されていく過程を以て誠実であること、善良であることの重要性を実感させる作劇になっている。本当に素晴らしい映画体験であり、𠮷田監督の作品群の中でも屈指の名作になっている。

来週末で公開が終了する劇場も多いため、是非とも劇場に足を運んでもらいたい。


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