昨今の推し活文化の問題点を考えてみる

「小学生の推し活」なんてワードが一時Xのトレンドに入った。
正直、あまり印象は良くなかった。

自分はそもそも昨今の推し活文化があまり好きではない。

推し活自体はコンテンツの楽しみ方としてはアリだと思うし、むしろそれが今の主流というか、醍醐味だろう。それはいい。推しは人生を豊かにする物だ。

しかし、昨今の「推し(のグッズやガチャ)のために時間やお金をジャブジャブ注ぐのが当たり前。課金額やイベント通いの回数が多いほど偉い」みたいな風潮が広まっている状況を良しとは思えない。

何故なら、それは未来を捨てる行為だと思うからだ。

過剰な推し活で得られるものは人それぞれだと思うが、それが将来使えるはずだったお金や自分の糧にできるはずだった時間を食い潰してまで見合うものかと言われれば、そうでないことが多いだろう。

もちろん相応の余裕があって趣味の範疇でやっている人もいるかもしれないし、逆にそうやって推しを支えにようやく現代社会を生きているという人もいるかもしれない。

問題はその中間で、推しに傾倒する必要はない人たちがそちら側に引っ張られていくことだ。

SNSなどで共通のコンテンツを追っている人と簡単に繋がる土壌が形成されたことで、そこで目立っている人からの影響を受けやすくなっている。だが、その目立っている人というのはおしなべて破滅的な行動をしているものだ。

そうやって、必要以上の推し活が本来必要ない層まで広まっているように思える。
「小学生の推し活」といって子供が推しのグッズを(親のお金で)大量に買い込む様子をテレビで見られるようになったことからもそれは伺える。

子供には無限の未来がある。
そのためにもお金は自分が欲しいものややりたいことに使うべきだと自分は思う。
グッズを過剰に買い込むのは、自分のためになっていない。
他人のためにお金を使うのは、自己投資が必要なくなった大人のやることだ。

別の切り口でも考えてみる。

「推しを人質に取られて」
という言葉がある。
要は公式のコンテンツに納得が行ってない(原因は解釈違いかもしれないし、提供方式かもしれないし、クオリティかもしれない)時に、しかし推しのためならばと自分を納得させてお金や時間といったリソースを吐くために使うオタクの発言の一種ではあるのだが、数ある迷言の中でもこれは特に良くないと思っている。

確かにオタクとしては悩ましい問題ではある。
推しへの気持ちを取るか、コレにお金を出したくないという気持ちに正直になるか。
だが「推しは推せる時に推せ」という言葉もある。
今日活動している推しが来年どころか来週、いや明日も元気に活動しているとは限らない。それも真理である。
故に、「人質に取られた推し」のために低品質なコンテンツであってもリソースを注ぐオタクも多いだろう。

また、運営への呪詛やゲーム自体への不満を吐きながらせっせとアプリゲームのイベントに励むオタクの姿もよく見られる。
明らかにゲーム自体は嫌って苦しんでいるのに、必死で喰らいつく姿勢は側から見ると異様ではあるが、それも推し活であり「推しのために努力できる場」であるが故なのだろう。
「やっていることは苦しくて仕方がないが、いざ推せなくなった(サ終やコンテンツの縮小)時に振り返ると良い思い出になるだろう」という発言すら見かけるが、正直なところ正気とは思えない。

アプリゲームへの課金に対するよくある批判として、
「ただのデータに課金してもサ終したら何も残らないじゃんw」
というものがある。
これに対しては「物ではなくその時の体験や経験にお金を出しているのであって、その思い出は残る」といった旨の反論がなされるし、納得のいく正論だと思う。

だが、苦しみながらイベントを走り続けるのを良い思い出として美化するのは、流石に違うのではないだろうか。

要するに、推しフィルターは物事の良し悪しの評価も相当に歪めてしまう一面があると思うのだ。

だが、そうして盲信的についていくことが、本当に推しのためになっているのだろうか。

アプリゲームなどはそれを良いことにゲームとしての質よりも、いかに気持ちよく推しに課金させるかという集金システムとしての質ばかりが重視されているように見受けられるし、飽きられ始めた近年の国産アプリゲームが圧倒的なクオリティの中国のゲームに蹴散らされているのもそれを裏付けているように思える。

もちろん企業側も良いものを作りたいという気持ちはあれど、当然ながら営利目的でゲームを開発・運営している。
その上で、コストをかけてクオリティを高めたゲームと、低コストでクオリティの低いゲームの2つがあったとして、同じコンテンツを使っていればどちらにも推し課金で同等の収入が見込めるのであれば、後者に傾いていくのはごく自然なことだ。

※例えば任天堂が強力なIPを持ちながら「遊び」を重視してキャラクタービジネスの展開に対して慎重なのは、こういった面を危惧してのことなのではないか、と思うところもある。

品質に関係なく推し課金をしていれば、全体の品質は下がっていく。
そうして推しが良いとは言えない品質のコンテンツに参加することが、本当に推しのためになるのだろうか。

具体例は避けるが、声優が参加しているコンテンツにコメントし(というか苦言を呈し)、それを受けたオタクがブチ切れるなんて事例は何度も見てきた。

端的にまとめると、オタクが過激な推し文化に傾倒すればするほど、将来的にコンテンツの品質は落ちていくし、それが広まれば広まるほど若者の未来も失われていく…ということにならないだろうか。
(もちろん、節度を持った推し活であればそうはならないだろう)

これは極論だし、自分は素人なのでこの考察が妥当なのかどうかの判断もできないが、最近そんなことをよく考えている。

しかし、未来のことを考えてお金を使えるようなオタクであれば、そもそも推しに破滅的にお金を注ぎ込むことなどしないはずだ。
推しのことを考えて今は課金をやめよう!と言ったところで彼らは今を生きるためにそうしているので、そうはできないだろう。

もっとも、メディアや企業側が推し活を連呼するようになったことで数年後には推し文化も廃れているのかもしれないが。

推しとは適度な距離感で、良いと思ったものにお金を出す。
せめて自分はそんなオタクライフを心がけようと思った次第である。

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