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「グルジア」の表記

 キーウ。
 
 日本語表記として、ハルキウなどの表記にはなじんだ。2022年2月24日正午頃(日本時間)以降に生きる同時代人として、おそらくロシア学徒である筆者は、ウクライナが主権を主張する地名などの表記にであえば、これからも日本語表記を確認することだろうと思う。
 
 「知らない」ことは恥ずかしいとは思わない。
 
 なぜなら筆者は、遅くとも2010年頃には、「ウクライナについての責任ある発信を行うならば、自らを『ロシア学徒』と認識する限りは、ウクライナについては『専門外である』という分別をわきまえるのが良識的だ」ということを抱いていたからである。
 
 もっとも、2014年10月にはロシア・東欧学会(当時)の基調講演でウクライナ情勢についての報告を末席にて聴きながらも「キエフ」などの表記・発言に気を遣ってはいないほどには、筆者は「浅学菲才」といわざるをえない。たとえば、ロシア研究者では2014年前半期の情勢をキャッチアップする過程でウクライナ語をなんとなく理解できるようになった、という方が少なくないと思われる(筆者はその努力すら怠った、ということを懺悔しなければならない)。
 
 では、グルジアはどうか。
 
 本稿はWord文書で作成しているが、現時点(2023年3月11日20時)で「ぐるじあ」と入力してスペースキーをおすと、「地名変更→『ジョー」』と校正ツールが起動する。
 
 筆者を「ロシア学徒」として認めてくださる方であれば、筆者に向かって「ジョージア」のことをたずねるのはナンセンスだとおわかりいただけるだろう。文字すら判読できないからだ。
 
 ジョージアについては、ワインがおいしいことで知られる。
 2014年冬。筆者は従兄弟と茅場町で会食した。
 その時に、「グルジアワイン」で乾杯した。
 プロフの食べ放題に感激した従兄弟は、筆者との割り勘を拒否し、従兄弟が「福沢諭吉」を出した上で筆者が不足分を支払うことになった。
 
前パラグラフでキーワードとなるのは、「グルジアワイン」と「福沢諭吉」。後者については、あと十五年もすれば「若い人」(「当時」でよいのだろうか?)ならば即座に理解することが難しいかもしれない。筆者(1980生)が、「聖徳太子」や「伊藤博文」といわれても一瞬考えるように(「福沢諭吉」ほどにそのような言説が市井で流通していたのかどうかは、筆者は専門外であるので、以下ry)。
 
 「グルジアワイン」はどうか。
 少なくとも日本語の市井空間では、流通していた単語である。
 前々パラグラフで「茅場町」と書いた時点で、筆者と従兄弟がどこの店で会食していたのかを特定できる方は、筆者が年賀状をお送りしている方の中には何人かいらっしゃるだろう。
 時期を「2014年冬」と明記したから、「表記に間違いがない」という確証をとることができる。なぜならば、前田弘毅先生(東京都立大学)へのインタビュー記事を朝日新聞(電子版)が配信しているからだ。
 
「08年の『グルジア紛争』でロシアの軍事侵攻を受け、ロシアとは国交を断絶。反ロシア感情が高まり、ロシア語由来の『グルジア』という呼び名を使っていた日本に対し、欧米で使われている『ジョージア』に変更するよう要請し、15年には実際に名称が変更されました」
 
朝日新聞(電子版)
「『外国の代理人』法案めぐり大規模デモから急展開
 ジョージアで何が」(2023年3月10日付)
https://digital.asahi.com/articles/ASR3B42WKR39UHBI02X.html?iref=pc_rensai_long_224_article (筆者最終アクセス:2023年3月11日)
 
 筆者は俗にいう「ブルジョア」なので、前掲インタビュー部分は、有料部分からコピー&ペーストした。
 さらに「ブルジョア」であることを証明しよう。本稿トップの写真。写真の対象はいうまでもなく大使館の名詞であるが、拙稿を書くだけのために、缶コーヒー「ジョージア」を添えるほどには、筆者には金銭的に裕福である。
 なお、上掲写真は、私的な場で、2013年12月に交換した。
 
 「グルジアワイン」という日本語空間にブランドとして確立していた単語は、2022年2月24日正午頃(日本時間)を境にして、「ジョージアワイン」という単語に置き換わっている。2014年冬に未成年だった従兄弟の長女長男は、もうすぐ二人とも飲酒可能な年齢になる(現時点では、長男は「成人」だが、「飲酒可能な年齢」ではない)。
 
 筆者が「親戚の中に一人いる、変わったおじさん」として振る舞うことが許されるようになったなら、彼女(彼)には「ジョージアワイン」を持参すると思う。「あなたのお父さんと一緒に飲んだ時(2014年冬)には飲んだワインと産地が同じ国だ」と口上しながら、「あなたのお父さんと一緒に飲んだ時(2014年冬)に飲んだ当時には『グルジアワイン』と呼ばれていたのだよ」ということまでは言わずにおいて。
 
 さて、語学の才のない筆者であるが、英語ならば、「それなりにはできる」と言えるほどには努力した。
 
 2013年5月22日。
「グルジア外務大臣 マイア・パンジキッゼ博士(言語学博士)」による講演。主催は、笹川平和財団。使用言語は英語だったのだが、彼女の「英語」は、筆者の半生においては筆頭にあげてもよい「きれいな英語」だった。正直なところ、米国人や英国人のVIPによる英語にはナマり(?)があることが少なくないので、彼女の英語よりも聞き取りやすさという点において劣後することが少なくない。米国人・英国人のVIPは、公選を経ていない限り、日本語でいう「声優」ではないのだから。ちなみに、ゼレンスキー大統領の「英語」を、「ウクライナ人の英語」と評価するのはふさわしくない。ゼレンスキー大統領は、「元俳優」だということが、ゼレンスキー大統領の行動と言行に(ウクライナにとって良い方向へ)向かわせているという分析は必要だろう。
 
 さて、グルジア外務大臣(当時)の英語。筆者は、同時通訳の録音機を使わずに聴いてしまった。メモはPCの中にあるが、同時通訳の録音機を通じて通訳の方が「グルジア」もしくは「ジョージア」と訳されていたのか。筆者は、一片の情報ももっていない。
 
 同時通訳をつとめるほどの方であるから、「グルジア」についてどのような日本語を訳すだろうかを高い見地から熟慮されたと推察される。外相の英語と、通訳機の日本語を同時に聞き分けてそれをメモ帳に記録するという「聖徳太子」のような芸当は筆者にはできないので、その不徳をお詫びしたい(もっとも、相応の立場にある方がおられるならば、この芸当が不可能ではないかもしれないので、「不徳をお詫び」するというのは、あながち茶化した表現ではない、ということを察していただけると嬉しい)。
 
 では、前田弘毅先生(東京都立大学。2023)のインタビュー記事の中でカギカッコつきで表記された、「グルジア紛争」を、どのようにロシア学徒の筆者が表記するか。
 
 ロシア学徒を名乗る限り、これは逃げられない。
 
 どうしよう。
 
 とりあえず、「今後の研究課題とした」い。
 
 「グルジア紛争」は、2008年に突然起きたわけではなく、少なくとも筆者は2006年秋に兆候を察知していたからだ。『日本経済新聞』国際面のベタ記事をチェックしていれば、その端緒は確認できた。
 
 なぜそのようなことを言えるのか。
 
 2006年秋の出身ゼミのOBOG会の二次会で、近況報告を手短に語った思い出がある。大学院と家庭教師のかけもちをしていたので、その日は土曜日だったが、2件まわった後に、地下鉄を乗り継いで二次会終了間際に遅刻してのことである。汗と息を出しているスーツの筆者は、先輩に尋ねられた。
 
「神谷(かみたに)君。最近、元気にしてる?」
「はい。ロシアとグルジアの国境付近での偵察機撃墜記事が『日経新聞』、すなわち、日本語になっているので、要注意だと思っています」
「???」
 
 恩師の奥様から。
 
「神谷君。勉強も学業も大変ね。アイス、私の分は手をつけていないから、とりあえず、食べて」
「???」
 
 ゼミは、「国際政治学」のゼミ。
 この2年後の2008年3月。筆者は修士号を取得。
 副査の一人が、恩師。
 「出身ゼミ」とは、学部での「ゼミ」。
 恩師が「前期課程における、『指導教員』の一人(One of them)であって、『指導教官』(当時、筆者の環境では、この言葉が一般的だった)ではない」ということは、アイスクリームを食べた時には知っていた。しかし、筆者が、ほかならぬ自分の言葉で、自らの専門について語る矜持と知見を有する覚悟を「ソフト」な形で問われた一幕だった(から「思い出」として記憶に残った)と、今(2023)にして思う。
 
 ちなみに、「指導教官」にあたる指導教員(修論審査の主査)からは、大学院の初期の頃にこのような言葉をいただいている。
 
「神谷(かみたに)君。君の書いていることは、誰が書いているのか、わからない。自分のアイデアと、自分以外のアイデアを、頭の中で明確に区別しなさい」
 
 「指導教官」による研究指導のおかげで大学院生でありながら学会への入会を明確な形で禁止され、修士号取得後に大学院から「出る」という形で「研究者の世界」へと旅立つことにした筆者の過去だが、「研究したい」という思いはどうやら本物であったようである。
 
「ロシアを研究して定職につくことは不可能」ということを念頭において、学会報告も論文執筆も断念して大阪府警外事課協力者(2006-2018)という役割を演じられたのは、結構おもしろい半生だったような気がする。
 
 私は、「役者」だったのだろう。
 ゼレンスキー大統領には、とうてい、およばないが。
 
 証明できていないのは、「ロシア学徒」ということである。
 
 では、「ロシア学徒」の中で、どれを専門(集合A)とするのか。
 
 「専門ではない」ところ(集合Aの補集合)を折りにふれて気付いていくことを大切にしていきたい。決して「専門」にたどり着くことはできないアプローチではある。過去を変えることはできないが、未来は変えられる・・・・・・とは、筆者の人生の軌跡としてはあまり思っていない(たとえば、従業員なしの個人事業主で持病のある身では、ハローワークの紹介状があっても面接さえにも進めない)。

 とりあえず、「ゆっくり急」ごうとは思っている。
 拙著は下記(電子書籍・Kindle)↓。
 警察小説なのに一人も死なない、スパイの書いたスパイ小説。


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