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昔俺(1998)「東大を滑り止めにする」

 「東大を滑り止めにする」
 
 駿台で浪人をしていた1998年夏。筆者が正直な思いを口に出した。
 
 東大志望の同級生のY.H.が激怒した。
 
 筆者が所属していたのは、難関国立大コース。東大コース・京大コースと難関国立大コースをあわせて、LA(エルエー)クラスとして編成されていた(文系)。成績優秀者は駿台校舎で得点・順位が張り出されるのだが、筆者は、難関国立大コースで常に2位だった。評価対象は、英語・数学・国語・理科(1科目)・社会(1or2科目)。社会で2科目を要求されるのは、東大と京大と、たしか一橋大学のみだったので、難関国立大コースでは社会2科目を受験していた筆者は、どちらか得点の良い方で評価されていた。
 
 筆者は、日本史・世界史を2科目ともに一般模試で9割の得点を記録していた。各科目の優秀成績者として、東大コース・京大コースのクラスメートの中に、筆者の名前がまざっている。
 
「神谷(かみたに)。お前、数学、ボコボコやったな」
 
 ある朝登校すると、クラスメートが話しかける。なぜ成績表が配られる前に彼が知っていたのかというと、英語・国語・日本史・世界史で筆者がLA上位で成績優秀者として掲示されたから。各科目および総合得点の優秀者とその得点だ。社会を2科目受験しない筆者以外の難関国立大コースのクラスメートにとって、日本史でも世界史でも筆者に勝てないことは悔しかったと思う。難関国立大コースの優秀者の成績は、英語・数学・国語・社会(1科目)で掲載されていた。
 
 クラスメートの彼らは、筆者の英語・国語・社会(日本史と世界史のうち、得点の高い方)を足し算した後に、「2位」の筆者の総合得点から引き算して数学の得点を求めていたのである。「1位」だったら、計算しないだろう。それほどまでに数学を苦手にしていたから、ネタになったのである。
 
 筆者の第一志望は、慶應義塾大学法学部政治学科。
 
 高校3年生の時、センター試験数学IIBで28点をとって、志望校の京都大学に出願することもなく、自宅でしょんぼりしていた。父がはっぱをかけた(1998年1月)。
 
「今まで京大!京大!京大!!言ってたのに、ひるんだか。情けない。早稲田と慶應くらい受けてこい」
 
 漫然と受験した早稲田と慶應義塾。
 
 鉄道ファンの筆者は、東京駅からのJR東日本の鉄道ダイヤに感動して、大阪と東京の活力の差を実感し、うちのめされた。新幹線品川駅の開通前。慶應義塾大学三田キャンパスの最寄り駅の田町駅には、山手線・京浜東北線のホームはあるが、その横を東海道線の普通列車が「通過」していく。大阪環状線の8両編成を「長い」と思っていた夜郎自大の筆者は、その事実に圧倒された。
 
 岩波文庫から出ていた福沢諭吉の本は、高校3年生の時に、京都大学国語第2問対策として必読の書籍。慶應義塾大学受験後、そして、受験日程すべてを終えた後の1998年3月に、『学問のすゝめ』(岩波文庫)を無心に読むと、その文体に惚れ込んだ。
 
 駿台生として浪人を許された筆者であるが、第一志望は、大阪大学法学部にした。物足りないと思いながらも、悶々とする日々。しかし、大阪大学と京都大学では、(大学受験レベルでは)雲泥の差がある。
 
 日本史・世界史を模試で受験して、両科目とも誰にも負けない筆者をみて、周囲も気付いていた。大阪大学法学部の二次試験は、英語・数学・国語のみ。
 
「神谷の志望校は、阪大ではない」
 
 そう、慶應義塾大学法学部政治学科なのだ。大学で、政治学を学びたい。だから、政治学科の所属する法学部を受験する。政治学を学ぶなら、日本史・世界史はいずれも必要だろう。目的意識の高い、立派な浪人生だった。・・・・・・夏休みにまとまった時間ができて、丸山真男『「文明論之概略」を読む』を自力で読むのはいい。同書では、福沢諭吉『文明論之概略』の当該箇所を音読するように指示がされていたのだが、家で大きな声で福沢諭吉『文明論之概略』を音読しているのをみて、マジメに浪人生活を送っているように親から見えたのだろうか、正直なところ自信がない。
 
 筆者(1998)には、大人の事情がわからぬ。旧・帝大は、日本史の知識で知っていた。大阪大学は、大阪で育った筆者にとって、「2番目」の大学だった。圧倒的な不動の1位は、京都大学だ。
 
 福沢諭吉『文明論之概略』を自宅で音読するような「受験勉強」に至る前の駿台1学期でも、筆者は、大阪大学が本命の志望校ではないということを公言していた。大阪大学法学部。それは、合格したのちに、入学を辞退して慶應義塾大学法学部政治学科に入学するための「通過点」だった。だから、センター試験では大阪大学法学部に合格できる点数を確保しなければ、受験シーズンに上京して受験する機会を親から勝ち取ることができない。こう思って受験勉強をしていた。
 
「日本史と世界史を両方とも勉強して、お前はシンドないのか」
 
 世界史の知識があれば、中世日本史の貿易相手の王朝(中国・朝鮮半島)に迷うこともないし、明治時代以降では世界史・日本史の知識を区切る意味は、受験生にとってはあまり意味がない。
 
「神谷。お前なぁ。日本史(世界史)の授業の内容を、授業を受ける前に『知っている』のか。反則や」
 
高校3年間の「復習」を、駿台の授業で行っていた。なかば、あきれられていた。模試や校内試験の成績表をクラスメートに見られることに羞恥心を抱かなかったのは、筆者の科目別得点が「優秀者」として掲示されているから、隠そうにも隠しようがない。筆者の成績表をみながら、クラスメートの彼ら(←男女混合クラス編成だったが、「彼ら」だけである。なぜなら筆者の周囲は男子占有率100%だったからw)は、自分の位置や志望校への距離をはかっていたのだと思う。
 
 「東大を滑り止めにする」
 
 こんな筆者の発言は、関西に育った筆者の正直な実感だった。トップは、京都大学。しかし、数学が致命的に足をひっぱるので、模試でも判定は芳しくない。その一方、日本史・世界史を二次試験に課している(地理・日本史・世界史の中から2科目を課している)東京大学文科I類の判定もそれなりに手応えがあったし、慶應義塾大学の併願として、大阪大学は物足りなかった。
 
 筆者の成績表を見に来ていた、東大志望のY.H.が激怒したのは、その時である。
 
 筆者の認識では、「京都大学>東京大学」だったのだ。関西出身者で、進学校の中でもトップ高校以外の方であれば、「京大の存在感」を理解していただけると思う。
 
 Y.H.とは今でも年賀状交換をしている仲なのだが、あの時の怒りはものすごかった。都合の悪いことに、筆者の「成績」は、それを後押しするようなものだった(模擬試験での成績は、共通テスト・入試本番という場面では無力なので、受験生は勘違いしないように!)。
 
「夏休みの東大模試。あんたが勝つよ」
 
 Y.H.は、筆者につぶやいた。
 
 実際にその通りになった。東大模試では、勝った。
 
 なぜ、Y.H.と仲直りできたのか。それは、
 
「京大模試で良い結果が出るならば、慶應義塾大学法学部政治学科ではなく、京都大学法学部を第一志望にする」
 
と大々的に宣言し、京大模試でボコボコにされたからである。
 
 夏休み。
 
 京大模試と東大模試を受けた。
 
 東大模試では、国語第2問と日本史で苦戦をしいられたものの、順当だった。
 
 東大模試の世界史(60点満点)の得点は、京大模試の英語・数学の合計得点(300点満点)を上回った。
 
・・・・・・
 
・・・・・・
 
 ちょっと待て。
 
 だめ押しは、国語。第1問(50点満点)の得点は一桁だし、解答欄をバッチリ埋めたところに、容赦なくゼロ点の「得点」があちこちに見られる。筆者の現代文は、1学期最後の駿台校内模試(50点満点)で49点をマークして、採点者である現代文のT先生が答案用紙に「すばらしい!」と直筆をいれられたほどなのである。
 
 それにしては、京都大学を夢見て、励んできた「受験勉強」はなんだったのだろう。
 
 傷心の筆者に、クラスメートは、容赦なかった。笑いがたえなかった。
 
 筆者の志望校から、京都大学法学部が、消えた。
 
 東大模試と京大模試の「コントラスト」があまりにも鮮やかだったので、駿台のLAクラス担任のKさんも、
 
「京大はあきらめよう。東大の方がええよ」
 
 と言われた。
 
 当時の京都大学法学部では、日本史と世界史を高くは評価しない。センター試験(50点満点?)と、二次試験(50点満点)。二次試験では英語・数学・国語がいずれも150点満点である一方で、50点満点というのは、自分の得意科目をいかせない。東大の方が楽しそうだ。
 
 筆者は、結果として、慶應義塾大学法学部政治学科の受験機会を、3度得た。当時は実施されていたセンター試験方式と個別日程ともに、筆記試験を合格し、面接試験に進み、堂々と思うところをのべて、不合格となった。
 
 駿台のサポートがなかったわけではない。センター試験方式で慶應義塾大学法学部面接試験対策として、模擬面接もしてもらえた。
 
「高校を卒業して1年間。あなたは何を学びましたか。・・・・・・受験勉強、以外で」
 
「フラれたことです。思いのたけを便箋にしたため、思いをぶつけることができました」
 
 課長が「答えられない質問への反応をみる」という目的のもとに発しただろう質問を、筆者は豪快に、正直に答えた。課長の隣でメモをとっている演技をしている若い女性職員の手の動きが止まり、彼女がかたまったのを見届けて、筆者は正面にいる課長の目を正視した。
 
 その揺るぎない姿勢と、政治学への思い、卒業後の進路、声だけは一流のはきはきした受け答え・・・・・・課長は、「B判定」を与えた。
 
「よくできています。でも、万が一、ひょっとして、非常に運が悪かった時・・・・・・」
 
 面接で落とされるという可能性を示唆された。データによると、7人に1人は面接試験で落とされていた。表向きは筆記試験と調査書(4.4/5.0)と面接試験それぞれの配点が提示されているが、面接試験で「×」とされたのだろうなと筆者は今にして思う。当時はオウム真理教などカルト宗教への警戒感も共有されていて、筆者のまっすぐすぎる言動は、中学3年生の時(1994年1学期。松本サリン事件や地下鉄サリン事件よりも前の出来事)から心配されていた。
 
 では、慶應義塾大学法学部政治学科の個別試験をどのように合格したのか。面接試験で不合格にされたら「ブラックリスト」(仮称)にでもいれられて出願時点で採点対象からはずされてもおかしくないようだが、筆者の場合、センター試験では世界史・現代社会を受験し、慶應義塾大学法学部では日本史を選択していた。
 
慶應義塾大学法学部では論述力(いわゆる小論文)があって一通りの教養を身につけておくのがセオリーだったので、地理を除く地歴・公民の全科目を勉強していた(センター試験の配点の関係で、現代社会の方が世界史よりも得点が1点高かった)。「機械的に排除する」ということを、慶應義塾大学法学部は躊躇したのかもしれないし、そもそもセンター試験方式と個別試験方式では出題傾向が全く異なるので、「機械的に排除する」という手間を想定していなかったのかもしれない。
 
 慶應義塾大学法学部にセンター試験方式で合格したのは、LAクラスで6名。面接不合格になったのは筆者一人。6名は、皆、東京大学に合格し、全員が東京大学に入学した。筆者は大阪大学法学部を合格した上で親を説得して、東京での下宿生活と慶應義塾大学法学部政治学科を親に認めてもらう・・・・・・算段だったのだが、「不合格」だったので、その必要はなかった。
 
 駿台のクラスメートがこんな慰めの言葉をかけてくれた。
 
「神谷。気にするな。KOは、お前の思っているような『慶應義塾』とは違う。カネや。合格には、100万円必要らしいで」
 
 帰宅して母に話したら、全否定された。
 
「100万円払って合格させてもらえるのやったら、ウチでも払ったるで」
 
 このとき、詐欺師が我が家に裏口入学をすすめることがあったら100万円くらいなら払っていたのかもしれないが、「詐欺師」は我が家にコンタクトをとってくれなかった。
 
 しかし、と思う。
 
 Y.H.は、激怒を表明した。
 
 他のクラスメートはどうなのだろう。
 
 LAクラスの難関国立大コースのクラスメートは、志望校は、大阪大学を筆頭としている。隣の教室には阪大コースも設置されていたのだが、彼らは阪大コースではなく、難関国立大コースを選択していた。
 
「阪大合格は当たり前。俺が怖いのは、センター試験本番」
 
と言い続けていた、昔俺(1998)。受験生としては間違っていなかったし、センター試験本番で最初の試験時間開始まで1分をきった時の動悸を、今もおぼえている。大阪大学合格を夢見ていたクラスメートの心を思いやるという心配りを持ち合わせていなかった。きっと、筆者の言動に傷ついていたクラスメートは、いたと思う。
 
 この場で、あの時はごめんなさい、と謝りたい。
 
 もっとも、今(2022)のおっさんになって、出身大学にこだわるような「子ども」は、もういないと思うけれど、その時に大切なものや目標に向けて努力することは、大切だと思う。
 
#高坂麗奈生誕祭2022 に、筆者のポエムを公開したのはなぜか。
 
 トランペット・ソロパート。中世古香織先輩にとって、それは、本当に得たい目標。
 
 高坂麗奈にとっては、得られるべくして与えられた通過点。
 
 プロのトランペット奏者になりたい高坂麗奈にとって、コンクールでソロパートを吹くということは、実力にてらして「当然」。考えもせずに、オーディションの結果を受け止めたと思う。
 
「ソロパートを吹きたいのなら、私よりうまく吹けばいいんです」
 
 筆者の場合、それが、「大阪大学法学部」だった。受験シーズンの1999年2月には、慶應義塾大学法学部の面接・個別試験・面接、と東京大阪間を3往復した。2月には28日しかない。しかも、大阪大学法学部の入試本番は、2月25日である。2月初旬には関西学院大学・同志社大学を受験していた。
 
 大阪大学の赤本を読んだのは、慶應義塾大学法学部政治学科の2回目の面接の帰途の新幹線車内である。いつ、「第一志望」の勉強をしていたのだろう。
 
 「青春」とは、そんなものかもしれない。
 
 後から振り返ってみれば、「くだらない」と思えるようなことに、夢中になることを許される時間。筆者の場合、模試をクラスメートに回覧されていたにもかかわらず、自分の偏差値も、受験校の偏差値も気にしていなかった。
 
 秋に受けた阪大模試。
 
 筆者の「阪大への愛」が如実にあらわれた。
 
 英語が壊滅的な成績だった。
 
「神谷。お前、英語、こんなにボコボコになっているのに、B判定でふみとどまるのか」
 
 国語が良かったのだと思う。あと、マーク模試で「失敗」をしなかった。模試とはいえ、英語と数学の2箇所で壊滅したら、「B判定」は出なかっただろう。
 
 秋の東大模試(2回目)は、よく覚えていない。
 
 Y.H.に、勝ったような気がする。
 
 覚えていることは、英文解釈(和訳)の問題で0点をとったことだ。Y.H.に指摘されて悔しかった。だから、筆者は外国語(英語・ロシア語)について己を過信しないようにしている。
 
 年が明けて1999年のセンター試験を終えて、2月になった頃だろうか。駿台の直前講習にも通わず、自宅で受験勉強をする筆者を話のネタに、食堂で話題になっていたそうだ。センター試験で失敗することなく、予期せぬことに、慶應義塾大学法学部政治学科のセンター試験方式で、面接試験に進むことができた。
 
「神谷が、慶応?・・・・・・ありえへんわ」
 
センター試験方式で、ダメモトで出願した慶應義塾大学法学部政治学科で、面接試験に進んだことを知ったクラスメートは、駿台の食堂でみんなと笑っていたそうだ。クラスメートの女子にA4―7枚のラブレターを書いて、それを受け取ってもらえないという見事な突撃玉砕をしたのは、1998年12月1日。
 
それまでに、その娘(こ)に、女子で唯一「おはようございます!」とバレバレの言動をとっていたが、駿台の教職員は、誰も、何も言わなかった。俺は、フラれたくらいで成績が下がるほど情けない浪人生ではない(フラれた後に、駿台ベネッセ共催模試の全国模試で全国50位くらいをとって、東大文科I類がB判定で返却された)。
 
筆者がなりたかったのは、慶応ボーイではなく、女性の前で全裸になったりキャバ嬢の偽手紙を偽造したりする『福翁自伝』の福沢でもなく、『文明論之概略』の格調高い福沢諭吉である。
 
「おいおい、神谷が・・・・・・慶應、面接でめげずに受験しに東京に行ったらしいで。今度こそ、合格するかもしれへん。どうするんやろう」
 
 心配はご無用。英語・日本史・論述力の筆記試験(2月16日)には合格して意地をみせ、面接試験(2月23日)では不合格になった。
 
 「いい大学に入って、いい会社に行く」
 
 という人生にはならなかったけれど、ロシア政治・経済・外交を学ぶにあたっては、数学や地学の高校課程のテキストを、取り組む前に放棄するようにはならなかった。
 
 駿台で浪人生として1年間過ごしたおかげで、思う存分勉強ができた。「大阪大学法学部生」で、居心地が悪い思いをしたが、どうやら現役東大生よりは、勉強するの

に不快でない環境のように思える。隠れて勉強していたが、堂々と勉強できる環境は、駿台での1年間のおかげである。

【駿台をへて大阪大学法学部をへて、新卒入社して身心を壊して早期退職して、どうなったか。大阪府警外事課の協力者(いわゆる「公安」のスパイ)になりました。アマゾンKindle(電子書籍)で、書いています。】


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