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「許せない」を許してみた。

人を許せないのはダメな大人だ。

よくこんなふうに言われてきた気がするし、自分にもそう言い聞かせて来たけど、本当にそうなのだろうか?

人を許せるということは度量があるということ。

やっぱり大人(の男)なら許してやる度量を見せなきゃ。

そんなふうに言われるままに飲み込んできたが、今回は少し立ち止まって考えさせられた話をしたい。

・前段としての自己紹介

と、ここで、前提を説明するために自己紹介をさせてください。

私、れいすいきは他人に対して恋愛感情を抱くこともなければ、性的に惹かれたなーという経験もない、そんな人生を歩んできた男。そう性別は男性で、20代後半、関東の会社に勤務しています。男性にも女性にも恋愛的な感情で「好き」と思ったことはありません。そんな人間です。
現時点では、自分自身のセクシュアリティをAセクシャル(アセクシャル、ace)で、おそらくAロマンティック(アロマンティック、aro)だと定義しています。

・そんな自分の「許せない」

そんな自分は、過去許したあることに頭を悩ませていた。どういうことか、少し長くなるが説明していこう。

・性体験のアウティング

会社に入社して早々、ある先輩女性社員(ここでは「その人」とします)に性体験を聞かれ、素直に答え、人を好きになったことがないと伝えると、童貞だと会社全体にばらまかれた。

結果、社外の人にまで最初に会うと、「あぁ、童貞の・・・」と言われるようになった--。

・その人からの謝罪

その人自体、その行為の是非はともかくとして、悪い人ではなく、部署も同じだったりしてその後もよく話す間柄だった。
2,3年前に一連の差別に満ちた質問とアウティング行為を謝ってきた。理解が足りなかったと詫びをされた。

自分は許しませんという訳にも行かず、"わかりました"と応え、許していた。

いや、"許していた"つもりだった。

だがその後、その人と話していると、どうにも、この人が自分を傷つけたという事実が、怒りに似た何かが胸のあたりまで込み上げてくる。いっそ吐き出してしまおうかとも思うが、許したはずだとその思いを堰き止めていた。

・tamamioさんのエピソードが救いに

そんな日々を送っていたある日、小学校教員をされているtamamioさんのある文章を読んだ。

ハッとさせられるので長めに引用してみたい(原文から改行を詰めています)。

その時私は2年生を担任していました。
下校前、3年生の男の子2人が
取っ組み合いの喧嘩をしています。
急いで止めて、理由を聞いて(些細な理由)、
「じゃ、『ごめんね』しようか」となりました。
片方は素直に「ごめんね」と謝りました。
すると相手の男の子は、
「いやだ」
と返答したのです。
えっ!びっくり!!
些細な喧嘩なのに、許さないの???
ややスピリチュアルに傾倒していた
当時の私にとっては「許すことは良いこと」。
怒りに囚われ過ぎると逆に辛いよ、
許すとそこから解放されるよ、
と思っていました。
あの手この手で説得して、「いいよ」を
引き出そうとしたのですが、タイムリミット。
結局、仲違いしたまま下校しました。
その顛末を、担任の先生にお話ししました。
担任は年配の男性教師。
子どもが好き、教えることが好き、
私がとても尊敬している方です。
その先生曰く、
「ああ、許せない時は許さないでいいって
 言ってるからね」
でした。
えっ?それってあり???
さらに「許せない時って、あるでしょう」
ーあります。
「そういう時は仕方がないよ。
 気が済まないんだから。
 許したくないくらい、
 嫌な気持ちになったんだから。
 ただ、気持ちがふっと柔らかくなって、
 『もういいかな』って思ったら、
 その時に仲直りすればいいから。」
ー・・・
もう、言葉が出てきませんでした。
こんな言葉かけって、あるんだ。
解決してあげないでいいんだ。
どうしようもないものを
どうしようもないままにしていいんだ。

許さなくていいんだ、その教えに自分自身もなんだか救われ、許していなかったあの時の自分の心を掴み取ることができた。

許すことで、許したことで、実は許せていない自分が辛くなっていたのではないか--と。

・許していなかった自分に気づく

そう、自分は今も許していなかったんです。
いや、正確に言うと、その時の自分は今もまだ、その人を許していないことに気が付きました。
今の自分は今のその人を見ていて、限りなく"許している"。けど、今の自分の構成要素のひとつでもある「その時の自分」がその人のことをまだ根に持っていました。

「あの時に感じた辛さ、屈辱、悲しさは単なる謝罪で晴らされるもんなんかじゃない」。
あの時、強く苦しみ、途方に暮れ悲しんだ自分はそう頑固に主張します。

謝罪を受けた時の自分は過去に抱いた気持ちに関係なく、大人な態度をとるために、円滑な人間関係を築くために、今を優先して、あの時の自分に許すことを強制していました。

・許さない≠恨む

許さないという気持ちを持ち続ける。かといって、これからソイツを殴りに行こうか~♪(『YAHYAHYAH』 by CHAGE&ASKA)というのも古すぎる、じゃなかった、現実的とは言えない。

自分自身、許せないとしてもずっと恨みに思う必要はないと思うんです。なぜか。
ずっと恨みに思うことは、その人に時間を費やすことと同義です。むかつく人のはずなのに、その人に自分がコストをかけていることになる。その人に時間を費やすこと自体、本当にムカついてきますよね。
だったら、その人のことを考えない方がいいと思うんです。許さないからといって恨むでもなく、考えない。

感情的にはその人を恨み、なんなら呪いたくなります。もちろん。ただ、冷たい言い方をすれば、それは自分にも相手にもおそらく何もプラスになりません。

だって、その人についてあれやこれや自分の頭も時間も使わされているんですよ、結果的には。こっちが被害を受けているはずなのに、それってバカらしくないですか?

・「許せない」を冷凍保存

だからこそ、その時の許さないという気持ちを冷凍保存するという考えに今は至りました。

許さなくても、憎みはしない。

静かに「許さない」を続けていく。

今も「許さない」という感情を自分の中で許し、認めて取っておく。そうして許せるようになったら、解凍して取り出せばいい。

最初は「罪を憎んで人を憎まず」という考えに触れて、一段階解凍していくかもしれません。

もう一段階、実は自分も同じように別の人を違う形で傷つけていたかも、そんな自省があり氷解していくかもしれません。

時間だけが解決してくれる訳ではもちろんありません。

ただ、その後の自分の変化、許せないことへの捉え方の変化、許せない人への印象の変化など、
それに合わせて、過去の自分の「許せない」を冷蔵庫から取り出すことができるのではないか。
電子レンジに入れるのはまだ先ですが「許せない」を冷凍スペースから冷蔵スペースへ引越しをさせて、やっと「許していない」と冷静に自分を見れるようになったんです。

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