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NOSTALGHIA(4K修復版)

観てから美術館に直行するつもりだったけど、案の定、作品から受け取ったものの余震で胸の内が騒がしいのでひと息つく。

たやすく言葉にはできない(してはいけない)ような、ただならぬ気配を霧みたいに纏っている作品だった。だから逆説的にも、このまとまらない気持ちを、言葉にしていったん自分の外に仮置きしないと日常生活のレールに戻っていけない。。

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この作品世界に流れているのは時間でも旋律でもだれかの人生でもなくて、ひとつの啓示(あるいはそれに抗うこと)の、断片的なかけらだという気がする。断片断片が、何某かの人や人生や感情や観念に乗り移って浮かび上がったものの、まとまらない集積のような。

あるいは、作中で流れているのは女の涙であり、男の鼻血であり、これ以上ないほどの美しく、かなしい水である。

なにに対する啓示なのか?

それがわからない。おそらく作品の直接的なメッセージとしては、イタリアとロシアの暗い歴史背景や、人間の自由尊厳と孤独、みたいなテーマが据えられていると思う。残念ながらそれについては無知なので、今のところ具体的なことは私に言えない。ただ、この作品にはそうした特定の時代場所を超えたもっと根源的な、人間への啓示がゆらゆら映し出されていると直感した。

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影と、水でできているような世界。

そのふたつの映し方がとてつもなく美しいということは、翻って、光と渇きを容赦なく、克明に映し出しているということだと思う。作品の最後は、ひとりの男が渇いた川底のようなところを、蝋燭の火を持って、何度も何度も渡るシーンだった。何かをひどくおそれているように見えた。何を、という点についてはいくつものまとまらない考えが私のなかにあるけれど、いったん散らかったまま保留しておく。そういうアイデアは意志を持って掘り起こすものではなくて、多くの場合、時が来れば自ずとあちらからやってくるものだと、(経験的に)知っているから。

ひとつだけ、短いけれど釘で刺されたみたいに脳裏から離れない台詞を。(厳密な引用ではない、記憶を辿っているので細かい言い回しが違うかも)

「どうすれば理解できるの?」
「境界をなくすんだよ。」

境界をなくせば、理解できる?
そうだろうか。その逆じゃなくて?

境界を引くから、理解できるのだと思っていた。少なくとも私は、そう思って生きてきた。

以前見て、忘れられない絵がある。川合玉堂の《瀑布》(明治35年頃)という作品で、表題どおり滝を力強く描いたものなのだけど、滝の水流じたいには筆が入っていない。地の紙色ままということである。これは「外暈(そとぐま)」と言って、描きたい対象の輪郭を墨などで濃淡つけることによって、対象じたいは紙色まま、その白さを際立たせる伝統技法らしい。(詳しくないが、概ねそういうことらしい)

その力強く叩きつける滝流を見て、これは人間存在のあり方そのものだと私は思ってきた。自分という個性や世界観や価値観なるものが、孤立する一本の木のように在るわけはなく、今日も明日も、私がそれと認めるものは玉堂の《瀑布》みたいにまわりの輪郭によって、その働きかけや問いかけをうけて反射的に浮かび上がってくるものなのでしょうと。

少なくともそう考えることで私は、自らの正しさみたいなもの(あるいは逆に、誤りや罪みたいなもの)がどこまで行っても相対的であることを、正気を持って受け入れられるように、じぶんに対して風呂敷を広げてきたのかもしれない。

だから、判らない。

「どうすれば理解できるの?」
「境界をなくすんだよ。」

判らない理由をすこし具現化してみたけれど、ほんとうは観ている最中は、もっと本能的にというか、直感的に、わからなかった。

おそらく、境界をなくしてみんなで同じ土俵を共有すれば分かり合えるでしょう、みたいな明快、陽気な文脈ではないはず。

これは暫くじぶんへの命題ということにする。
そのうちアイデアが昇華されて物語になるかもしれない。


そう、じぶんへの命題に溢れる作品でした。

観ながら無意識に腕を組んでしまったのは、スクリーンの向こうから私の身体を超えて、背後にまで差してくるような眼差しの、そのただならぬ気配に私自身が耐えられなかったから。
そんな気がしている。


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